「あれ?」
最初にそれに気が付いたのは縁側でだった。
板張りの床に点々と散らばる獣の毛。
手に取り日に透かせばそれは手の中できらきらと光った。
いつも己の傍に居る妖狐の物だと、すぐに見当が付く。
見当は付いたが、それならどうしてその狐の毛が縁側に散らばっているのだろう。
抜け毛だろうと言われればそれまでである。人間とて獣とて抜ける時は抜ける。
だが縁側に散らばった毛の量は、ただの抜け毛で済ますには明らかに量が多い。
しかも落とし主は自分にその事を知らせまいとしたのだろうか、
日の光で見え辛いが床だけでなく地面の方にも相当の量が落ちている。
これほど大量に毛が抜けて、しかもそれを隠さねばならない理由。
それを考えて、#奈々はさっと顔色を変えた。
「まさか、怪我でもしたとか……?」
落とされた鳥から羽毛が舞い散るように、傷口から毛が抜け落ちたのではないか。
元就がそうそう怪我をするとは思えないが、全く可能性が無い訳ではない。
回数こそ両手に足りないが元就も戦闘で手傷を負う事はある。
中には美しい毛並みが朱に染まる程の深手のものもあった。
そしてそのような場合、元就は極力その事を#奈々に知られないように振舞うのだ。
傷がある事が隠せないような場合でも、決して自分からは言い出さない。
例え深手であっても大事無いと言う。指摘されても認めない。
主人である#奈々本人が正直に言えと命令でもしない限りは。
「元就ー!」
抜けた毛の束をぎゅっと握り締め、#奈々は己の式神の名を呼んだ。
「呼んだか?」
意外にあっさりと元就は#奈々の前に姿を現した。
渋って中々出て来ないものと思っていたので少しばかり拍子抜けする。
が、すぐに浮かんだ違和感がそれを打ち消した。
簡潔に言うと、背中に何か足りない。いつも見慣れていた筈の何かがない。
少し考えて思い至った。
「元就……尻尾、どこ?」
後姿の殆どを覆い隠していたあの九尾が無いのだ。
頭にある耳も、薄手の布を被って隠している。
布の向こう側からこちらを覗き込む姿はまるで旅の女人のようだった。
長時間完全な人型を保ち続ける事は難しいので、耳だけで時間稼ぎといったところだろうか。
そうまでして隠さねばならない理由は、もう#奈々には一つしか思いあたらない。
血で染まった毛皮を主に見せたくないのではないかと、それだけしか。
「ああ、これか」
問われて元就は被った布を軽く持ち上げてみせた。
「少々見苦しい状態であるゆえ伏せている。それだけだ」
「見苦しいって……まさか、怪我でもしてるんじゃないでしょうねっ!」
話し方は疑問形であったが、#奈々の語調は殆ど確信に近かった。
異常なまでの剣幕に流石の元就も少々面食らったらしい。
「……怪我など、していないが」
「嘘」
「主……」
「本当の事、言って。本当は怪我してるんじゃないの?」
それは命令だった。
式神達の事を思って、自分でも滅多な事では使わないよう心がけてきた筈の。
主が命令として一言発せば、それは言霊となって式神を縛る。
元就はしばらく困ったように己が主人を見やっていたが、
やがてその表情をまじめなものに変え、おもむろに#奈々の前に膝をついた。
立ったままの#奈々と、跪いた元就。必然的に片方が片方を見上げる形になる。
「誓っても良い。主が案ずるような事は何も無い」
「……本当に、怪我とかしてない?」
「主が望むなら調べても構わないが。今この場で脱ぐか?」
けろりとして言う元就に、#奈々の方が真っ赤になった。
「……いいっ!」
言い捨てて廊下を駆けていく主の後姿を眺めながら、元就は首を傾げていた。
半刻ほどかけて混乱から立ち直った後、#奈々は再び縁側に座り込んでいた。
握り締めた手の中には金色の毛。
そういえば透かしても白銀に光るばかりで、血のついていた様子は無かった。
「怪我……じゃ、ないのかな。だとしたら何なんだろう」
俯いて地面に視線を落とす。その視線がふと一箇所で止まった。
「……あれ」
摘み上げたのは同じく獣の毛。
ただし元就のものとは違い黒に近い茶色で、質感も少しごわごわとしている。
一体誰の物か、これもあっさり見当が付いた。
「幸村……」
若造の狼は、そういえばここ数日余り姿を見かけない。
いつもなら一日一回は竜と言い争ったり他の式神達に怒鳴られているのに、今日に限ってはそれすらない。
試しに幸村、と呼んでみたが、くぐもった返事が返ってくるだけ。
代わりに佐助が「旦那今日はちょっと勘弁して欲しいんだって」と告げた。
「まさか、幸村が怪我?」
「いやいや、単にご主人様の前に出るのが恥ずかしいんだと思うよ」
「?」
疑問に思うほど毛が散っていたのはその日くらいのもので、
それ以降数日をかけて、屋敷内に落ちている抜け毛の量は徐々に減っていった。
縁側を見渡してももう何も落ちていない。
「何だったんだろうなぁ」
座り込んで冬の涼しい日差しを浴びながら呟く。
昼過ぎの幾分温めな気温を受けて、ふぁ、と欠伸が出た。
「午睡か、主」
振り向くと後ろに元就が立っていた。
もう尾や耳を隠すような事はせず、金色の毛並みを惜し気もなく輝かせている。
気が利くと言うべきか耳聡いと言うべきか、出来すぎた従者に苦笑が漏れる。
「うん、そうしようかな。尻尾貸してー」
「分かっている」
「えへへー」
差し出された九尾をもさもさと弄って具合の良い所を探し、頭を乗せる。
が、乗せた所で思わぬ感触に再び頭を上げてしまった。
「……あれ」
「主?」
再び手で弄ってみると、ぽふ、という柔らかい感触と共に右手がすっぽりと毛皮の海に埋まる。
元就の毛が柔らかいのは承知だが、こんなにふっさりした感触だっただろうか。
「……もとなり」
「何だ」
「ちょっと、狐に戻れる?」
「?」
主人の言葉に首を傾げながらも、元就は変化を解いて見せた。
#奈々の目の前に、金色の毛並みの大狐が鎮座している。
「これが何だというのだ」
「……胸毛が生えてる」
「……?」
胸毛と表現して良いものか迷うが、確かに胸の部分に大きな毛の塊が見える。
ぼふりと顔を押し付ければ案の定毛の海に顔が埋まった。
今年の夏、狐の姿で戦っている元就を見た時には無かった筈のもの。
#奈々の意図する所を悟ると元就はああ、と息を吐いてあっさり言った。
「冬毛だ」
「ふ……?」
「幸村もそろそろ時期の筈だが……寒さに備える為毛が抜け変わる。
毛の抜けた姿というのは少々見苦しいのでしばらく隠していたのだが」
「……ああ」
「主?」
「冬毛か!」
言うが早いか#奈々は冬毛の狐に飛びついていた。
夏よりいっそうふかふかになった尻尾を撫で、反対の手を伸ばして胸の毛も弄る。
「こ、こら、主」
「そっかー冬毛かぁ。道理で」
「先日から一体何だというのだ全く……っ!?」
「おー、付け根の方までふさふさ……ってあれ、元就もしかしてここ弱い?」
「う、煩瑣い!」
「だって今ぴくってしたよここ。あ、ついでだから肉球触らせて肉球」
「〜主!」
「怪我したんじゃないかって心配したんだから心配料!胸毛と尻尾と肉球!」
「……案ずる事は何も無いと言うたであろう」
「心配しちゃったものはしょうがない!だからまずは尻尾から!」
「わ、分かったから付け根だけは極力……〜っ!」
冬毛