シリフ霊殿
Schild von Leiden

月には牙を。私に刃を。
「狂気とはどういうものか、知っているかい」
 石切丸の間延びした声が響く。
 行灯の微かな炎があるだけの夜暗い室内にあって、それは凛とした祝詞の如き響きで耳に届いた。
 快く低く、あたかも己が主に言霊を刻むように。
「心が、普通とちゃうようになる、こと」
 切れ切れに紡ぎだしたのは、審神者としての経験と知識が導き出した解答だった。同時に語が内包する概要と、予想し得る最悪の結末までもが脳裏に閃く。
 軽い首肯は、一体そのどこまでを指したものか。
「では、普通とは何かな」
「…………」
 無言の返答に代わるように、主従を照らす灯火が揺れた。相手が近い。
「それはね主、日常だ。神道においては非日常、ハレと対を成すケの日だ」
 邪気に敏い彼は言葉を続けながら密かに傍らの大太刀を手に取る。大振りに構えたそれを床へ突き立てると、ず、と藺草を断つ音がして気配が薄くなった。退魔の結界である。
 最早封じるという語が相応しいまでの段階へ来ている。残された時間の猶予がないことを双方が悟った。
「日常生活を送ることが困難になるほど一つの感情に取り憑かれれば、それはあまねく狂気になる。紅の涙落つ悲しみも、怒髪天を衝く憎しみも、或いは身を捨てるまでの恋情も、狂気という点では変わりがないんだよ」
 彼は恐らく、境界を越えてしまったのだろうね。
 視線は障子の向こうを見ている。その先にあるのは凄惨な戦場、そして闇だ。今は少し離れた本陣に引き返してきているが、ここまでの警戒を要する以上、先方もまたこの近辺をうろついているのだろう。
「……やっぱり、うちの所為やなあ」
 ぽつりと漏れた呟きを否定する為に、石切丸は主君の髪をあやすように撫でた。
「うちが何も言うたらんかったから」
「主が気にすることではないよ。今回は彼の方に少し、思うところがあっただけでね」
 三日月宗近に変異の現れたのは三月ほど前であった。
 戦で誉を受けて微笑んだその瞳に、ふと蔭るものが見えたのが初めであるように思う。
 原因は判然としないが、そもそも彼らが相手取っているのは思念の塊である。人か物か、その時代に執念きものあって、時をも歪めんと野心を抱いたものたち。至った感情は恐らく各々異なっているから、敵として対峙した際に丁度感応するものが居たのかもしれない。
 ともあれ三日月宗近の振る舞いは、ある時を境に豹変した。
 味方が傷付くのを厭わぬようになった。戦から逃げのびる人間を斬り捨てるようになった。果てにはそれを嗜めた仲間にまで刀を向け、皆で寄ってたかって押さえ付けたこともあった。
 そして今日に至って気付いた。彼の瞳から最早理性が消え失せていることに。
 歴史の仇敵でこそないが肩を並べることも出来ぬ存在を、一同は畏怖し、そして逃げるように戦場に敷いた陣まで帰還して来たのだった。三日月宗近ただ一人を残して。
 幼い審神者が煩慮するのは、一つの出来事である。
 三日月宗近の凶行が未だ粗暴の域を抜けない頃、戦の血脂も拭わぬままの彼に問いかけられた。
 天下が欲しいか、己を欲して呉れるか、と。
 戸惑った。自分の望みは使命を果たすことであって天下を獲ることではない。三日月宗近はその手伝いをしてくれる頼もしい存在であって改めて求め欲するなど考えたこともない。
 結果返答に窮し、その場では肯定も否定もせずに終わってしまった。
 思えばあれから彼の行動は苛虐性を増したのではなかったか。あの時きちんと言葉をかけていれば、選択を誤らなければ。幾度慰められようと後悔は尽きない。けれどもそれはここに至って、胸を潰さんばかりの憂苦の内に、ある一つの決意をもたらすものでもあった。
 回顧に耽っていると、矢庭に硬い破壊音がした。石切丸が苦鳴を噛み殺しながら自らの分身を引き抜く。
 破られたのだ。折れはしないまでも刀身を大きく損なったそれは、暫く武器としての役には立つまい。
「はは、矢張り彼に金気は余り効かないね」
 脂汗を滲ませながら睨む先に、彼には邪気の源が見えるのだろう。
 紙と仄灯りしかないそちらを一瞥し、やがて#奈々は断固とした動作で身を起こした。
「……うち、行かんと」
 障子にかけた手をやんわり押し留めるものがある。しかし、消耗した力では、十三の小娘一人繋ぎ止めることができなかった。
 表情に心配というより悲痛さを貼りつけた石切丸に、大丈夫やからと笑ってみせる。
「倒しに行くんとちゃうで。こっちに連れ戻しに行くんや」
「けれど、主一人では」
「うち以外迂闊に近付かれへんやろ」
 存在概念において、他の刀剣と三日月宗近は同列である。今はたまさか同調を免れているだけで、蔭りを増している彼の傍に近寄れば、影響を受けない保証は何処にもない。
 大丈夫、ともう一度笑った。
 あの時は何も言えなかったけれど、今なら返すべき言葉がある。示すべき覚悟がある。周囲の破壊するしかないという言葉を聞いて初めて、抱いた思いがある。
「伊達に審神者やってへんで、嘗めんとき」
 背後の盛大な溜息と共に飛び出した先には、抜けるような夜空が広がっていた。





* * *





 据えた血の臭いが漂っている。
 それが彼自身が斬り捨てた相手のものか、それとも全身に纏わりつかせた穢気が放つものかは判別がつかない。いっそ知らない方が余計な思索を招かないだろう。
 薄い月明かりで視認できる距離まで近付く。人の気配に反応して、ゆるりと彼が振り向いた。草履の端が転がった首を無造作に蹴る。
「やあ主か。どうだ、この様は」
 歩を進め、身体ごとこちらへ向き直った彼は笑っていた。
 口角を上げると、連動するかのように瞳の中で三日月が揺れる。その輝きは些かも衰えていない。
 しかしその眼は本当にこちらを見ているのだろうか。虚ろな瞳孔は、主である#奈々ではなく、その先の遥かな闇を見つめているようにさえ感じられる。
「……何しとるん」
 問いかけてみたが、小首を傾げて変わらず笑んでいる。
「ははは、これは異なことを。俺は刀だぞ、主の為に戦っていたに決まっている」
 言いながら、手にした自身で血糊を飛ばすかのように空を切った。鉄錆色に凝ったそれの代わりに黒い澱のようなものが散り、風もないのに吹かれて消えてゆく。
 ぬかるむ足元が何に濡れているのかなど考えたくもない。そちらに視線を逸らせば、別のものからも目を逸らしてしまいそうで怖い。だからなるべく思考を遣らないようにして、目の前の三日月宗近だけを見据えていた。
 なあ主。赤く淀んだ眼が嬉しそうに細められる。幸せそうに持ち上げられたままの唇からぼろぼろと言の葉が零れ落ちてくる。
「なあ主、俺は強いだろう」
「主さえ望むならば天下さえも取らせてみせるぞ」
「それとも憎い者の首が良いか。名が分かれば直ぐにでも切り落として来よう」
「それとも何か怖いものがあるか。如何なるものからも俺が護ってやろうな」
「それとも」
「それとも主には俺の他に誰ぞ良い業物がおありか」
 表情が一変した。虹彩がぎゅうと窄まり、顰められた眉が深い皺を刻む。見開いた眦には血が滲んでいる。苦悶とも憤怒ともつかぬ紅の瞳が真っ直ぐに主君を射抜いている。
 修羅。
 噛み千切らんばかりに牙を突き立てた唇が吐き出すのは呪詛だ。
「憎らしいな、俺がどれほどその誉れを望んだことか」
「どれほどその任を負いたく思ったことか」
「どれほど往時の力を出せないのが歯痒かったことか」
「どれほど、俺が」
 面前の大気が消し飛んだ。白銀の刃が、鼻先から寸分の隙もない位置に突き出されている。#奈々が僅かでも身を竦ませていれば、その眉間を貫いていただろう。
 しかしそれは怯む間もなく、また直ぐに持ち手によって力無く下ろされた。最早言葉が見つからないのか、ただどれほど、と繰り返す。声は絞り出したように震えていて、怒りを通り越した泣き声のようにさえ聞こえる。
 それでも三日月宗近は、主を見つめてやまないのだった。
「ごめんな」
 謝りながら一歩踏み出すと、逃げはしない代わりに長身が大袈裟なほど震えた。
 真に狂える天下の名剣が、今更何を恐れるというのか。やはり彼は殺したいのではない。傷付けたいのでもない。ただ増幅した感情の持って行き場がない。
 向けられるべき人間は彼を黙殺したのだから。
「ごめんなあ」
 更に歩を進め、彼の右手を握って武器を落とさせた。大丈夫、まだあたたかい。
「やっぱりちゃんと言うといたら良かった」
 三日月宗近は時を止めたように主君を凝視している。その呆けたような表情を見て、また一つ安堵した。
 これなら、言いたかったことが言える。
 一つ息をついて、彼の三日月を覗き込んだ。
「うちもあんまり何度も言えへんから、よお聞いといてや」
 言い辛いどころの話ではなかった。措辞を考えては悶絶して壁に頭を打ち付け、文言に託そうとしては筆を放り投げた。挙句の果てにはなるべく遠回しな方が言い易かろうと、態々手入れ中の麾下を訪ったのである。今にして思うと緊迫した状況で不謹慎極まりない。
 これが最大限の努力。千の齢を持つ彼にならきっと伝わるだろう。
「『夢路には足も休まず通へども現とせばや三日の望月』
 帰ったらその服洗って、ご飯食べてお風呂入って、そんで……一緒に寝ような」

 未だ女にもならぬ少女の、それは確かな求婚の言葉であった。

「……あ」
 三日月を宿した瞳がぐらりと揺れた。
 堰が切れる。境界を越える。垣根が払われ、感情が波を打って日常へ流れ込んでいく。両界はやがて、同等の水嵩をもって鎮まるだろう。
 眼には見えぬ、気配のみの確かな転変。
 数瞬の後そこに居たのは、以前から見知った通りの三日月宗近であった。
 しかし先刻までの表情は全て諸共に消え失せたようで、何とも言い難い顔をして立ち尽くしている。それを見て、#奈々は穏やかに笑ってみせる。日々彼に誉を与える時のように。
「空見てみ、月が綺麗やで」
 彼女の笑みを見てようやく男も、何かを思い出したかのように微笑んだ。
「その必要はないぞ。主の眼によく映っている」





* * *





「結局何だったの?」
 立てた箒に顎を乗せるようにして、加州清光がぼやく。日頃から主に愛されるためと自分磨きに余念のない彼には、今回の拍子抜けする結末が些か気に食わないようだ。
 石切丸が砥粉を拭いながら苦笑する。
「狂気を収める最も良い方法は、非日常を日常へ落とし込むことだよ。例えば葬式には生者に死者と訣別させ、死者のいない日常を享受させる役割もある。恋愛で同じことをするなら結婚、夫婦とは日常的なものだからね」
「ふーん」
 分かっているのかいないのか、返事は軽い。
「じゃあ主はあいつを殺させない為なら一生を懸けてもいいと思ったってこと」
「それだけ彼女の気持ちが大きかったということかな」
「……やっぱなーんかムカつく」
「ははは」





* * *





 風呂上り、襖を開けて見た光景に絶句した。
「……は」
 部屋の中央にきっちりと敷かれた夫婦布団。蒔絵の塗盆に並べられた懐紙に、水指と湯呑。行灯の傍らには香炉が置かれ、馨しい香りが一面に焚き染められていた。
 そして窓際、部屋の隅の方に、白い夜衣に身を包んだ三日月宗近が淑やかに座している。
「長風呂だったな主、待ちくたびれる所だったぞ」
 いや、初夜ともなれば入念に清めるのも当然か。
 続けられた言葉に今度こそ混乱した。
「しょ……て、あの、何、これ」
「見て分からんか、床の用意だ」
「そこちゃう!」
「ああ、設えのことか。流石に香など色々持ち合わせがなかったのでな、歌仙兼定から借りた」
 成程この風雅な調度品は彼の私物か。恐らくは茶事用であろうそれらを閨房に貸し出せというのだから、趣向に拘る彼はさぞ苦虫を噛み潰したに違いない。
 ではなくて。
「まあ座れ、主。冷えるぞ」
 枕辺を袖でうち払いながら促される。立ち尽くしている訳にもいかないので、渋々褥の上に腰を下ろした。
 三日月宗近が当然のように、婉麗な動作でその横に座る。
「すまんな、最近の作法はよく分からんのだ」
「そういう問題ともちゃうねんけどなあ」
「主の言葉が嬉しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまった」
 しっとり呟かれると文句を言えなくなる。数時間前まで盛大に拗ねていたのがこれだから、尚更小憎らしい。翌朝には手入れの済んだ面々からたっぷりと怨言を貰うことだろう。
 恐らくこの男には碗を箸で打つほどにも響かないのだが。
 おもむろに顔を上げると、目の前の男は艶然と微笑んでいた。その瞳の奥には変わらず、あの時の三日月が見える。
 この月は今の自分の眼にも映っているのだろうか。つくづくと眺める。眺めている内に、今度は向こうから右の手を取られた。決して強くはないそれに誘われるまま、右手は夜衣の合わせを開き、その奥へとのびていく。
「え、ちょお」
 はたと気付いて慌てる前に、低い声が被さった。
「良いぞ。触って良し」
 しろかねのような肌が指先に触れる。武人のそれとは思えぬ艶やかな光沢があった。しかして彼の本体とは違い、撫でればあちらが切れそうなほどに甘く柔い。幾度か指を滑らせ絹の柔らかさを堪能すると、握られた腕がまたすうと動いた。それは胸元から脇腹を辿り、そして更にその下へと
「寝よう!」
 耐えきれなくなった#奈々は唐突に叫んだ。
「ほら今日色々あったし大変やったし疲れたやろ!明日からまた隊列ちょっと変わるやろし内番の交代もあるし早起きせなあかんしな!な、寝よう!」
 呆気に取られている肩口を自分でも驚くほどの力で布団に押し倒し、その横に転がって、ばっさりと掛布を被る。身長差からどうしても頭まで埋まってしまうが、今はむしろ好都合だった。
 頭上から忍び笑いが聞こえる。
「まだ主と袖を差し交すのは難しいか」
 言葉と共に、頭の下に腕が差し込まれた。布団越しに強く抱き竦められる気配がする。
「まあそうだな。俺も今宵はこのまま寝よう」



Pixivの闇堕ち三日月に滾ってイメレスさせていただいたもの。
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