犬が濡れているのかと思った。大型の。
だってこんな土砂降りの夜に電柱にもたれて座ってる人間が居るとは思わない。
きちんと体育座りした酔っ払いが居るとも思えないし、
ホームレスだって今頃はもっと雨風をしのげる所に移動している筈だ。
反抗期のガキんちょにだって最近はこんな真似する根性がある奴は少ない。
(あ、雷鳴った。)
しかしよく見れば赤犬という種はあれどここまで赤い訳は無く、
赤いジャケットとズボンと鉢巻を身に着けているだけのただの人間だった。
ただ、酔っている訳ではなさそうだし、ホームレスになりそうな年齢でも無い。
不自然といえば不自然だった。
「家出かい?」
一応聞いてみる。
聞きながら、差していた傘を少しそちら側に傾けてやった。
赤犬っぽい人間はしばらく反応しなかったけれど、しばらくして首を横に振った。
「行く所とか帰る所は?」
これにも首を振る。
考えたくないが、まさか本当に風変わりなホームレスなんだろうか。
まだ少年といっても良い歳なのに、嘆かわしい。
「腹は減ったかい?」
少し、本当に少しだけ、首が縦に振られた。
「……おいで」
何故こんな台詞が出たのか判らない。実際、言ってから自分でも驚いた。
驚いたのは向こうも同じらしく、顔を上げてきょとんとこちらを見ている。
「今夜は冷えるらしい。一晩雨に打たれれば死ぬぞ」
立たせる時に握った手は死人の様に冷たかった。
既視感(デジャ・ヴュ)という言葉の意味を知った気がした。
……まあ、腹が減るようならまだ軽症だろう。
洗面所から持ってきたバスタオルで頭を拭いてやる。
少年は特に抵抗もせず、俯いたまま黙って頭を拭かれていた。
先刻の既視感はどうやら錯覚では無かったようだ。
「ほら」
同じく洗面所から持ってきたバスローブを、新しいバスタオルと共に差し出す。
少年はやはりきょとんとした顔をして、私とバスローブを交互に見た。
「私に服を脱がされるのは嫌だろう」
それとも脱がせて欲しいのかい?と冗談混じりに言うと、
顔を真っ赤にして素早く私の手からタオルと着替えを奪い取った。
成程、元はこういう性格なのか。中々に面白い。
「脱いだ服はそこの籠にでも放り込んでおいてくれ。後で洗って干しておくからね」
出来るだけ振り返らないようにしながら台所へ向かう。
買い足して来た材料さえ加えれば、シチューが出来上がる。
少年が何者なのか判明したのは夕飯の時だった。
シチューに首を傾げるところから始まり、金属製のスプーンを物珍しげに見つめ、
食べている間も周囲にちらちらと不思議そうな目線をやる。
何がそんなに珍しいのかと事情を聞きがてら尋ね、返ってきた返事が
「真田幸村?」
しかも主君は武田信玄で、部下は猿飛佐助。
「……小説の様だね」
いわゆるタイムスリップというやつか。
もっともこれが病院か何処かから逃げて来たパラノイア患者でなければの話だが。
(それに確か真田幸村は豊臣の家臣だったような気がする)
「……笑わないのでござるか?」
「笑って欲しいのかい?」
「いや……」
食後の珈琲を飲みながら苦笑する。やはり中々に面白い性格だ。
「聞く限り信じざるを得ないじゃないか。私はそんなに頭の固い人間じゃないよ。
それに、君の目は嘘を吐いている目には見えない。
君は多分本当に過去か、そうでなければ全く別の世界から来たんだろうね」
如何してこんな所へ来たのか、それは聞かないことにした。
何となく予想がついたからだ。
「幸いうちは広いし、もう一人養うくらいなら何とかできる。
君の方に出て行く気がないのなら、気が済むまでうちに居てくれて構わないよ」
「かたじけのうござる!……ええと」
「#天原#奈々。#奈々でいい」
「承知した、#奈々殿」
感謝いたす、と手を合わせるその仕草、邪気の無い笑顔。
どこか翳りがあるのは気のせいでは無いのだろう。
(今夜あたり、来るだろうな)
当たってもあまり嬉しくはない、勘。
人生経験が大事というが、こんな経験ははっきり言ってしたくなかった。
二人分の布団を、少しだけ距離を詰めて敷いた。
続き物ですがシリアスではありません