人類が初めて月に降り立ってから早三百五十年。
尤もあれは捏造だとする説も未だ消え去っては居ないのだが、
つまり人類が宇宙への進出を開始してからそれ程の年月が経過しているのだ。
けれどそれにしては随分と寂れている、と#ナナは思う。
精々幾つかの宇宙施設と、進出初期に面白半分で作られた宿泊施設。
それらとそれらの成れの果てがごろごろと廃墟のように転がっている、それだけ。
裏側に回ればそれも更に少なくなる。
広がるのはただ暗い星の海と、でこぼこした地平線。
成程、緊急時の一時避難場所としては中々の良い立地だった。
折角なのでその辺の石に腰を下ろしたり地面に足跡をつけたりして遊んでいると、
遠くから一機のモビルスーツが飛来して来るのが見えた。
機体の後ろを漂うGN粒子が、何処と無く彗星を思わせる。
『ヴァーチェ、目標を確認。救助行動に入る』
AIと同化しているのかと思う程無機質な声。ミッション時の彼は大抵こうだ。
尤も普段から彼の弾んだ声など聞いたためしが無いのだけれど。
コックピットのハッチが開いて梯子が下ろされる。乗れ、という意思表示。
当然だ、これは元々そういう予定。CBの活動開始に向けた、想定訓練の一環なのだから。
けれど。
『どうした』
梯子に掴まらないのを不審に思ったのか、コックピットから再度声が掛けられる。
#ナナは拗ねたような素振りを見せて軽く梯子を蹴った。
「ティエリアも降りておいでよ」
『・・・何?』
いかにも予想外といった感じの声。
ああその声は悪くない、と思う。普段からその位面白い反応が出来れば良いのに。
「折角だしもうちょっとのんびりしてこう」
『訓練中だ』
「どうせ訓練じゃん」
『#ナナ・#ヘヴンフィールド!』
怒りに荒げられた声。これは普段から割とよく聞くかもしれない。
放っておくと本当に置いて帰られてしまいそうなので、#ナナはいそいそとヴァーチェの足元に駆け寄った。
此処まで来るとパイロットには死角になり、うかつに機体を動かせなくなる。
「ちゃんと戻るから、五分だけ、ね?」
『・・・』
マイクがパイロットの盛大な溜息を拾った。
「月って思ってたより何も無いんだねー」
のんびりするとはいえ特にする事も思いつかないので、
月面に降りてきたティエリアに話しかけつつ、地面に星型に足跡を並べてみたりしている。
ティエリアは何をするでもなく、ヴァーチェの傍でそんな#ナナを見つめていた。
「アポロ13から三百年は経ってるんだから、少なくとももうちょっと進歩してるかなーとか思ってたんだけど」
「所詮人間はその程度の進歩しかしていないという事だろう」
「うわきっつー。まぁティエリアらしいけどね」
どうも彼は何処かで人間を見下している節がある。きっと次にはこれだから人間はとかそういう台詞が来るのだろう。
進歩しないから争いが無くならない、かもしれない。
つまるところ彼はこういう話題になるとそんな事を一言二言言うだけなのだ。
「そんな事より」
なので#ナナは三つ目の星型を描きながら話を逸らす。
「兎いないのかな」
「は?」
「あたし小さい頃そういう話聞いたんだよ。月には兎が居て餅を搗いてるって」
ティエリアが再び溜息を吐いたので、どうやら話題転換には成功したらしい。
「何かと思えば御伽噺か。まだそんなものを信じているのか?」
「うわー子供泣かすような事平気で言ったよこの人は」
本気で信じていた訳では無いが、そんな身も蓋も無い事を言われたくも無かった。
「そもそも俺は餅そのものも、それをどのようにして搗くのかも見た事が無い」
「あれ、カルチャーギャップが」
「餅といえばユニオンの経済特区の伝統食か。
守秘義務の一環として、個人情報が推察されるような言動は慎むべきだな」
どうやら話を持っていく方向を間違えたようだ。
軽く視線を逸らしながらそうだけどさ、と口の中でぼやく。
例え内輪同士の軽口であろうと認めないのだからこの男は詰まらない。
「・・・お餅美味しいのに」
ぼそりと呟くと三度目の溜息が返って来た。
「俺は食べた事が無い。故にそれに対する意見も述べられない」
「うんそれはさっき似たような事聞いた」
「何か言って欲しければ、実物を持って来てみたらどうだ」
「・・・うん?」
「異論があるのか」
「いや・・・別に」
黙り込んでしまうと月面には風すら吹かず、ただ沈黙だけが降りて来る。
先にそれを破ったのはティエリアだった。
「・・・五分だ。戻る」
時計も無いのに、彼の時間計測は余程正確であるらしい。
偶然なのか意図的なのか、気が済んだらしい#ナナがヴァーチェの傍に戻って来るのとほぼ同時だった。
「全く、訓練だからよかったものを・・・」
「だから、良いじゃんどうせ訓練なんだしって」
「本番の為の訓練だろう。本番で仕損じたらどうする」
「大丈夫でしょ、ティエリアだし」
こつん、とヘルメットに何かが当たる感触。
「・・・楽観的な」
「どうしても、っていうなら構わないけどねぇ」
帰還後、訓練放棄の罰を、と言い出したティエリアにスメラギは酒の容器を傾けながら苦笑した。
他人だけでなく自分にも厳しいというのは利点でもあるが、扱い辛い。
とはいえ今回は理由が理由なので、困惑よりも微笑ましさの方が勝った。
「まさか貴方が訓練より#ナナの我侭を優先するなんて」
「・・・不可抗力です」
「そうだとしても。珍しいわね」
貴方も飲む?と勧められた琥珀の液体を丁重に辞退すると、
予測していたのかいけず、と言いながらその容器を自分の口へと運ぶ。
頬が仄かに色付くまで飲んでから、それじゃあ、と話を切り出した。
「貴方への罰。今夜一晩、#ナナ・#ヘヴンフィールドの部屋に泊まる事」
「部屋?営倉では無いのですか?」
「私の代わりにじっくりお説教してあげて頂戴。それがあの子への罰よ」
「・・・了解」
無論、彼が彼女の口車に弱い事を知っての采配である。
足元が実際死角かは不明ですすいません