食堂の奥の扉を開く。
食堂の奥、廊下とは別のドアの向こうに調理場がある。
ここは例え食事時でなくとも休む事が無い。
皿を洗う時の食器の触れ合う音がしてくるかと思えば銀の食器を磨く小さな音もするし、
湯気の立つその向こうでは、早くも夕食の下ごしらえが始まっている。
「光秀」
私が呼ぶと、湯気の向こうからコック長が顔を出した。
「おやお嬢様、こちらにいらっしゃるとは珍しいですね」
私は暇だったのよ、と言いながら調理場を見渡す。
ここはいつ来てもまるで夕食の食器のように綺麗に磨き上げられている。
鍋からもうもうと立ち込める湯気からはとても良い匂いがするし、
鈍く光る料理器具はきちんと並べられて出番を待っている。
申し分のない美しさだ。ただ、一箇所を除いては。
「光秀……これは何かしら?」
「今夜のスープに使う鳥ですが」
「そうじゃなくて、その向こうの真っ赤な染みよ」
私は湯気を上げる鍋の向こうの壁を指差した。
真っ白なタイルに、何かを飛び散らせたような紅い模様が鮮明に浮かび上がっている。
「おや」
光秀は今気付いたといった風に声を上げた。
「鳥を絞めた時に飛んでしまったのでしょうね」
あっさりと言うその目はまっすぐ壁の染みを見つめている。
また彼の悪い癖が出てしまったらしい。
私は苦笑して小さく溜息を吐いた。
「後できちんと拭いておきなさい。白い壁にその染みは目立ってしまうわ」
そう言うと、光秀は不思議そうな顔をして私を覗き込んできた。
「お嬢様は、お優しい方なのですね」
「唐突ね。どうしてそう思うの?」
「私のような人間を目の前にしても、嫌な顔ひとつなさらないとは」
「嫌だと思った事が無いもの」
「そうですか」
光秀が首を傾げると、銀色の髪がさらりと揺れる。
「血が好きだなどと言うと、大抵の人間は良い顔をしないものですよ」
普段人の目など気にしない彼がこんな事を言うのは珍しい。
私は笑って光秀の額を一つ小突いた。
「私がその大抵に入らないだけだとは思わないのかしら?」
「貴女はお嬢様ですからね。中々そうは思いにくい」
「私、貴方達にそう呼ばれるのは好きだけれど、そう思われるのは嫌いよ」
それに、と言いながら調理場の奥の方へ足を向ける。
光秀の姿は再び湯気の向こうに消えようとしていた。
「例え貴方がどんな人間であろうと、貴方の料理が美味しい事に変わりは無いわ」
私が貴方の料理を大好きだという事も。
「……本当に、貴女はお優しい」
湯気の向こうから光秀の声が聞こえた気がした。
料理担当:明智光秀