シリフ霊殿
Schild von Leiden

あなたへ、
 虫の知らせというものがある。
 何かあった、と、部屋で書物を読んでいた時唐突に感じた。
 いてもたってもいられなくなり、部屋の戸を開けて廊下へ飛び出す。
 元就の魂が教えてくれたのかと後になって根拠も無く思った。

 部屋を出て初めて分かった、大きな妖の気配。
 式神の気配も、そういえば殆どがそちらに集中している。
「あ、主殿!」
 向こうから幸村が息を切らして駆けて来た。
「幸村。何があったの?」
「何やら妖が、元就殿と力比べをしたいとか申して・・・」
「力比べ?それだけ?」
「それがその……あやつ、元就殿に名も名乗らず不意打ちをしかけて参りまして・・・」
 幸村がそこまで言って怯えたように身体を震わせる。
「某、手傷を負うた元就殿など初めて見たでござる!」
 後はもう聞いていなかった。



「不意打ちとはいえ、この元就に傷を負わせた者は何年振りか……」
 屋敷の向こうから元就の声がする。
 怪我といっても、声を聞く分にはまだ余裕そうだ。
「ばーか、当たり前だろ。おれさまはさいきょうなんだからなっ!」
 聞いた事のない声。これが幸村の言っていた妖なのだろう。
「……主に手は出さぬと申すか。良い、其方等は下がっておれ」
「おい、元就!」
 元親や政宗の焦ったような声。
 #奈々は廊下を走る速度を少しだけ速めた。
 元就がやられるなどとは思っていないが、何かが起こりそうなのは確かだ。
 それ以前に怪我の具合が心配でならない。
「主殿!」
 しかし駆け寄ろうとした所で後ろから走ってきた幸村に抱きとめられ、
 元就の前に飛び出す一歩手前で足止めされる格好になった。
「幸村」
「なりませぬ主殿!今、出られては」
「幸村、『放して』」
 口をついて出たのは、式神を縛る『命令』。
 びくんと幸村が反応して、押さえていた腕の力が弱まる。
「っ……承知した」
 ごめんね、と小声で言いながら再び声のする方へ歩を進める。
 縁側を蹴って庭へ降りると、見た事のある金色の光が見えた。
 元就が大きな術を使う時に見せる、増幅した妖気の光。
「元就!」 
 声をかけると、その場にいた全員が一斉に#奈々の方を振り向く。
「主、来てはならぬ!」
「え?」
 はっと気がついた時には、妖が身を躍らせて目の前まで近付いてきていた。
 少し遅れて大きな爆発音。
 しかし巻き込まれたのは#奈々では無い。
「ぐっ……!」
 大きな音がして、屋敷の一角が吹き飛ぶ。
 ばーか、と妖が誰かに向かって言うのが聞こえた。
 ああいつもみたいに屋敷壊さないようにとか言ってなくて良かった、
 真面目な元就の事だから屋敷を庇ってもっと酷い傷を負っていたかもしれない。
 ショックで思考がどうかしているのか、ぼんやりとそんな事を考えていた。
「元就!」
 #奈々が駆け寄ろうとした時、屋敷だった瓦礫の山が音を立てて崩れた。
 ぶわ、と増幅した金色の光。
「小者が……軽く捻ってやる心算であったが、主に手を出すとあらば容赦はせぬ」
 ゆらりと揺れるのは金色の毛並み。
 逆立てた尾の先に狐火を灯して、九尾の狐は相手を睨み付けた。
「我が怒りに触れた事、死して悔いるが良い!」





「……ごめんね」
「何故謝る」
「だって……」
 力比べを仕掛けてきた妖は、狐の姿に戻った元就に怯えて逃げた。
 追い討ちをかけなかったのは元就の怪我がそれだけ酷かったからである。
 最初に受けた傷はそれほど大したものでは無かったのだが、
 屋敷に叩き付けられた衝撃と屋敷の残骸で受けた傷がかなりのもので。
 そしてそれは#奈々に気を取られて隙が出来たから受けた傷。
「あたしが出て行かなかったら、元就もこんな怪我はしなかったのに」
 襲い掛かられた筈の#奈々が怪我一つしなかったのは、
 元就が溜めていた力を咄嗟に主の前に壁を作る事に使ったからだ。
 しかし元就の気が逸れたのを知った瞬間、妖は身を翻して元就に矛先を向けた。
 自分があの場に出て来なければ、と思うと後悔と罪悪感が尽きない。
「これしき、主が無傷ならばすぐに治る。気に病む事はない」
「でも……」
「相当の手練であった。もし主があれを食らっていたらどうなっていた事か。
 その時の事を考えれば、これ程の傷は何でもない」
「そうじゃない、そうじゃなくて」
 陰陽師は式神から通力を得、式神は主から気を得る。
 気はそのまま生命力に置換されるので、主の生命力が弱まってさえいなければ式神の傷の治りは早い。
 妖の傷は深手に見えても大した事無いもんだから、と佐助も付け足してくれた。
 確かに不意打ちで受けたほうの傷はもう回復を始めているが、
 流石に屋敷の破片が刺さった腹部の傷はそう簡単には治らないだろう。
 少なくとも向こう数日は、今までのように戦う事は出来ない。
 妖にとって戦えない事がどのような意味を持つか、知らない筈は無かった。
「あたし、何も出来なかった」
 俯いて何かを堪えるように声を絞り出す。
 元就が戦ってる時、自分は一体何をやっていたというのだろう。
 ただ、邪魔をしただけだ。
 皆に止められたのに、それを『命令』で拒否してまで。
 そうまでして態々、元就の足を引っ張りに行っただけだ。
 じわりと目頭が熱くなる。

 傍で元就が溜息を吐くのが聞こえた。
「何を気に病んでいるかは知らぬが……」
 そっと頬に暖かい手が触れる。
「我は其方を役に立たぬ主だなどと思った事は無い」
「……お世辞はいらないよ」
「世辞など言う我と思うか?」
「……いや、思わないけど」
 正直に答えると、元就は少しだけ笑った。
「妖にも知性はある。価値の無い主に誰がここまで仕えるものか」
「それはそうなのかもしれないけどさ・・・でもあたし、何も出来ない」
 守ってもらうばっかりで。
 そう言った途端、ふわりと柔らかい感触に包まれる。
 元就に抱き締められているのだと気付くのに少しかかった。
「ならば、主にも出来る事を教えてやろう」
「何?」
「今しばらく、このままで居る事だ。傍に居てもらった方が治りが早い」
「……うん」
 背に手を回す振りをして触れた傷は、少しずつ治り始めていた。



怪我
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