午睡の最中、うとうとし始めた頃に、元就がやおら腰を浮かせた。
「なぁに元就、どうしたの?」
「妖気が……」
「妖?」
「うむ」
戦闘になるかもしれないと知って、#奈々は大人しく元就の尾から頭を退かす。
代わりに上衣を軽く巻いて宛がってやると、元就は縁側を立った。
いつもの輪刀を構え、庭の一角をきっと睨み据える。
「あれ―――」
事前に知らされていたとはいえ、全く妖気の無いところから声がしたので#奈々は少々面食らった。
庭の片隅、元就が睨んでいた辺りに、いつの間にか人が一人立っている。
「気配は消しておったが、気付きゃったか。流石は九尾、鋭い事よの」
淡い色合いの直衣を身に纏った姿は老人のようにも見えるが、
よく見ればその顔は妙齢の娘で、銀に光る白髪を膝の裏まで伸ばしている。
髪の間に、同じ色をした獣の耳が僅かに見えた。
奇妙な出で立ちだが、扇を口元に当てて笑う姿が不思議と様になっている。
「……何をしに来た」
構えた輪刀は下ろさずに、元就がきつい口調で問う。
政宗や元親ならその場で逃げ出す程の剣幕だが、女は余裕の笑みを崩さない。
「あれ、滅相な事。この白狼族が長、#朔夜の顔を見忘れたかえ」
「何をしに来たと聞いている!」
ほ、と#朔夜は口元に扇を当てたまま笑った。
「そのように毛を逆立てずとも、惑鬼の小娘には手など出さぬわ。
惑わすは狐が本領と思うておったゆえ、その狐が惑わされた姿を見とうなっての」
「貴様……!」
「どれ」
先刻まで縁側に寝そべっていた#奈々は、珍客の登場にその身を起こしている。
その顎を#朔夜の指がくいと掴み、上を向かせた。
「ふむ、良い顔じゃ。魂も程好く熟れておろう」
後ろを向いて、思う所有りげににやりと笑う。
「これ程の魂の持ち主、妖の身なればさぞ食いでがあろうの、九尾の?」
「やらぬぞ」
元就が一段と低い声で答えた。
それ以上主に近づけば、という雰囲気がひしひしと伝わって来る。
「あれ、修羅の燃えつるよ」
#朔夜は大袈裟に身を竦ませて#奈々から手を放した。
「怖や怖や、狐の恨みは千歳に祟るぞえ」
口元も目元も笑いの形に歪んでいる。心から怯えている様子はまるで無い。
#奈々もまた、怯える事も抵抗する事も無く二人の不思議な掛け合いを眺めている。
#朔夜がそれに気付き、再び彼女の顔を覗き込んだ。
「小娘、妾が恐ろしゅうは無いのかえ」
#奈々もまたきょとんと彼女の顔を見返す。
「え、だって、元就のお友達なんでしょう?」
「ほ」
#朔夜は少し驚いたように眉を上げた。
「肝が据わっておるのか、そもそも据える肝すら持っておらぬのか……
どちらにしても、難儀な主を持った事よの。心中察するぞ、九尾の」
「貴様が言うなッ!」
お友達なら歓迎してあげなきゃ、と主に言われたので、元就は仕方無く#朔夜を連れて廊下を歩いている。
表情はお世辞にも上機嫌とは言い難い。
「生きておったのか」
「死んで居らぬのが惜しいような言い様じゃの。妖ゆえ易々とは死なぬぞ」
「誰もそのような事は言っておらぬ」
「おや、怒らぬのかえ」
「……どういう意味だ」
「いいや」
しばし会話が途切れた。廊下を歩く足音だけが響いている。
「あの惑鬼の主に」
元就は歩を止めて背後を振り返った。
「随分と入れ込んで居るの。他者を寄せ付けなんだお主にしては珍しい」
馬鹿にされているのかと目つきを険しくしたが、#朔夜は相変わらず笑ったままだ。
「そう睨む事でも無かろ。妾には喜ばしき事ゆえ」
「……我が主を持って貴様に何の得がある」
「お主が丸うなった」
「丸く?」
「妾の顔を見ても、狐火を向けて来ぬようになった。行き逢うただけで火達磨にされて堪るものかえ」
「さて、そのような事もあったか」
「素っ惚けおってからに。小憎らしや」
#朔夜は扇の向こうから些か恨めしそうな目つきで元就を見た。
今までの態度からしてどうせこれも演技なのだろう。
「まあ良いわ。理由がどうあれ、孤独を選ぶか仲間を選ぶかはお主次第ゆえ」
元就は#朔夜を見返すついでに睨みつけた。
「黙れ」
「黙らぬ。疎ましき妖の身も、小娘一人守るにはさぞ助けとなるのであろうな」
「貴様、斬り捨てられたいか!」
再び取り出した輪刀を、#朔夜は手にした扇で軽く受けた。
「脆いのぉ」
くすくすと笑っている。
「脆うて、弱い。いっそあの小娘を喰らえば通力も上がろうものを」
「煩瑣い!貴様に主の何が分かる!」
「何も分からぬわ。たかが人間如きも、それに魂を賭けるお主も、何もな」
「っ」
「ほ、怒ったか。九尾の妖狐が人間如きを罵られて怒るか」
「貴様、言わせておけば……!」
「小娘に誑かされて魂を磨り減らすなぞ、九尾が聞いて呆れるわ。……しかし、それが良い」
扇に力を込め、事も無げに輪刀を弾き返す。何で出来ているのか、傷一つついていない。
「お主はその方が良い。そのままで在りや」
「……どういう意味だ」
「あれ、珍しい事。二尾の黒狼が居やるわ」
#朔夜は余所を向いて強引に話を逸らした。
成程視線の先では幸村が槍の稽古をしている。
ようやく人間の武器を取って戦うのに慣れてきた所なのだ。
「黒狼は妖になる者の少ない分、腕の立つ者が多いとか。
二尾ともなれば群れの長も勤めて居ったであろうに、それすら従えるか。今更ながらに末恐ろしい惑鬼よ」
どうやら元就の問いに答える気は無いらしい。
元就は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
「どうですか#朔夜さん、元就、相変わらずですか」
立ち尽くしていた二人に#奈々が近づいて声をかける。
「主」
「だってあたし昔の元就って知らないんだもん。
どうせ誰かに聞くなら、近くに居た人に聞いた方が正しい話が聞けるでしょ」
「……」
元就が答えあぐねているのを良い事に#朔夜が口を開いた。
「全く変わって居らぬという事も無い、が、弄り甲斐のある所は変わらぬの。相も変わらず愛い九尾じゃ」
「なっ……!」
「良いでは無いか。詳しゅう話したとて、この娘には理解の及ばぬ所もあろう」
小声で元就を嗜め、#朔夜はいつもの笑みで自らの思考を押し隠す。
「ゆっくりしていかれるんですか?」
「是非にと言いたいが、長の身ゆえ長く群れを抜けるのも許されぬでの。そろそろ暇を申し上げねばならぬ」
「……そうですか」
「そう肩を落としやるな。次は土産の一つも持って来よう程に」
「はいっ!」
「主……」
素直な反応に、元就が盛大な溜息を吐いたのは言うまでも無い。
#朔夜も心なしか笑みを深くして#奈々の頭を撫でた。
元就の前では人間如きと罵ったが、#朔夜本人はこの少女が嫌いでは無い。
長の地位を捨てて式神に、という信じがたい話も、この娘ならばと思ってしまう。
(これぞ惑鬼の力か。末恐ろしいものよ)
己も脚の一本程置き土産に、という考えを寸での所で消し去る。
既に妖狐の長を捕らえたこの魔性に、己だけは惑わされる訳にいかなかった。
(人とはいずれ木の花が如く散る定めにあるもの……岩が如き妖とは違い、美しく)
長となる程の年経た妖には先見の力が宿る。
先刻#奈々の目を覗き込んだ時、#朔夜は己がこの娘に為すべき事を悟った。
その来たるべき時の為に、己だけはこの娘に束縛される身であってはならない。
一時の望みに任せては、いざという時に#奈々を救ってやる事が出来なくなる。
だから今は撫でてやるだけだ。
哀れで、そして愛しい娘。
「……可愛い娘。惑鬼の娘。妾とて物にせぬのは惜しい。
出来る事ならば何ぞ差し上げて、心行くまで傍で愛でてやりたいが」
ふと、その笑みが意地悪なものに変わる。
「悋気に駆られたどこぞの九尾に、八つ裂きにされとうも無いでのぉ」
「?」
「貴様、帰るならさっさと帰らぬか!」
「おお、それじゃ。忘れて居ったわ。九尾の」
「……何だ」
「先刻のものにまだ答えて居らなんだでの。
妾は美しきものは愛でようと思うて居るだけじゃ。お主の思うような他意は無い。
それと、」
#朔夜は踵を返しながらぱちん、と扇を鳴らした。
今はこの男にもまだ、戯言以外は語る心算は無い。
語れば彼は、何としてでも自分の邪魔をしようとするだろう。
邪魔をされても構いはしないが、それではあまりにつまらない。
「知らぬであろうが、孤独は強く、時に脆い。孤独でない者は更に脆い。
お主の企みを咎める気なぞ無いが、妾は存外あの娘を気に入っておる。ゆえに」
一瞬だけ笑みを消して、釘を刺す。
「笑わさなんだら承知せぬぞ」
元就は横を向いたまま答えなかった。
友垣