「主」
向こうの部屋に居た筈の元就がいつの間にか隣ににじり寄って来ていた。
ふっさりとした大きな尾が身体に当たって少しくすぐったい。
「不穏な気配がする。傍に居て良いか」
#奈々が彼の申し出を断る事は滅多に無いが、それでも元就はこうして毎回律儀に主の許可を仰ぐ。
「いいよー」
書簡に筆を走らせながら許可を下すと、元就は小さな仔狐に化けて#奈々の膝で丸くなった。
きちんと尾も一本に減らし、妖気も完全に消して、ただの獣の振りをする。
妖をおびき寄せる時は、傍に他の妖の気配がしない方が近寄ってきやすいのだ。
そうして元就がそれとなく周囲を警戒している間に、
#奈々は書簡を書き終えて、近くにあった読みかけの歌集を手に取った。
みしり、と家が軋む音がする。元就の言う『不穏な気配』がやって来たらしい。
やがて簾をくぐって、何処からか青い着物に身を包んだ青年が現れた。
頭の上には小さな角が生えており、着物の裾からは鱗の生えた尾が覗いている。
人で無いのは一目で知れた。
竜か、と元就が聞こえない程の声で呟く。
「よう」
竜らしき妖は軽くそう#奈々に声を掛けた。
#奈々は歌集に目をやったまま相手の方を見ようともしない。
「女の陰陽師たあ珍しいな」
「へえ、判るんだ。参内しても気付く人いないのに」
「生憎妖ってのは、人より鼻が利くもんでな」
「あはは、みたいだねー」
ぺらり、と彼女が歌集の頁をめくる音。
「前に変装した時も元就に一発でばれたしね。動物っぽいっていうか何ていうか」
「元就……?」
その言葉に驚いたように、竜が一歩後ろへ下がる。
怯んだ隙を見逃さず、陰陽師の膝に居た狐が一瞬で人型をとって襲い掛かった。
鋭い爪での一撃は、鱗の生えた腕に弾かれる。
とはいえ、元就の攻撃を受け止められる妖はそうはいない。
割と強いのか、と#奈々は興味深げに竜を見た。
「角も生え揃わぬ若竜……威勢の良いのが都で遊び回っていると聞いたが、貴様か」
「That's right。九尾に知ってもらえてたとは嬉しいぜ」
「何用で来た」
「ちょっとな。あのLadyから随分とイイ匂いがしたもんで、一口齧ってやろうかと」
異国語は理解出来なくとも、語感から内容が理解出来ればそれで十分。
竜が楽しそうに笑ってみせた途端、元就の目付きが一変した。
「貴様……ッ、我が主を愚弄するか!」
人型をとりながら大きな尻尾を一振りして、竜を床に叩きつけようとする。
「あ、元就、家壊さないでねー」
そのままいくと縁側に大穴が空きそうだったので一応釘を刺しておく。
命令を聞いた元就は咄嗟に尻尾の角度をずらし、叩きつける場所を庭に変えた。
家を壊すなという命に従い、戦闘の場所を庭へ変更したらしい。
庭に下りた時には何処から出したのか、二人ともその手に武器を持っている。
竜は自分の爪に似た六振りの刀を、元就は輪のような形の大きな刃を。
体格は竜の方が若干有利だが、武器の扱いにまだ慣れていないらしい。
すぐに押し切られて体勢を崩した。
「Shit!」
「この程度か。所詮は若造という事だな」
「るせえ……!大体人間嫌いのアンタが何でこんな所で式神なんざやってんだよ!」
「貴様に言う必要は無かろう。死ね」
竜の言葉に眉一つ動かさずに、元就は止めの一撃を振り上げた。
「元就」
かけられた一声は静止の意。
振り下ろされようとしていた輪刀が寸前で止まった。
「もういいじゃない。その辺で勘弁してあげなよ」
「……承知した」
些か不満そうではあったが、素直に武装を解き、家の中へと戻る。
戻り際に竜へ一瞥くれてゆくのを忘れずに。
俺も式神にしてくれ、と竜が言うと、元就は案の定眉間に皺を寄せた。
「如何いうつもりだ」
心なしか低い声で、政宗と名乗った竜を睨む。
「アンタに言われたかねえな。このLadyが気に入った、それだけだ」
「……主に手を出したら承知せぬぞ」
「アンタちったあ考えろよ。そんな事しようもんなら離反扱いで即行契約破棄だろ」
「ふん、貴様の事だ、契約など鱗の一枚二枚で軽く済ませるという事もあるからな」
先刻の言葉をまだ根に持っているらしい。
ややあって、負けず嫌いらしい竜が盛大に舌打ちして叫んだ。
「……あー分かったよ、要するにこれぐらいやっときゃ文句ねえんだろ!?」
べしゃ、と何かが膝の上に飛んで来る。
摘み上げてみると今しがた抉り取られたばかりの目玉だった。政宗の顔の右側から血が滴っている。
「それで契約だ。OK?」
「……随分投げやりな契約だねえ」
苦笑しながら懐から守り袋を取り出す。
契約した時に貰ったものは、大体ここに入れておくようにしているのだ。
妖の呪が掛けられているので、ある程度の大きさがあっても不思議と収まる。
「陰陽師・月影、真の名を#奈々。妖・政宗との契約を受領する」
契約時の文句を言って、飛んで来た目玉を守り袋に仕舞う。
しまいながら吐いた小さな溜息を、その場に居た妖にしっかりと聞き取られた。
「Ah?何だ、右目だけじゃ不満か?」
「ううん、別にそんなんじゃないけどね」
式神達が自分に大事な物を委ねてくれるのは嬉しい。
それが大事な物であればあるほど、自分を信じてくれているのが伝わって嬉しい。
自分はそれだけの価値があるのだと思って貰える事が嬉しい。
ただ時々、どうせなら、と思う事がある。思うだけの、ただの我侭だ。
「どうせ持っておくなら、目玉より鱗の方が綺麗で良かったかなーって」
悪いですか、女の子だもの。
頬を膨らませながら言うと、次の瞬間政宗に思い切り抱きつかれた。
「あーもーアンタ本当可愛いな!予想以上だぜ!」
「え、あ、あの」
「No problem、鱗なんて見たい時に言えばいつでも見せてやるからな。
つーかもうアンタ相手になら喉撫でさせたって構わねえよ、My Master!」
「はあ」
竜の喉には一枚の逆鱗があって、触れたものを必ず殺すという。
多分、喉を撫でてもいいというのはそういう意味。
それは嬉しいけれど。
「気安く主に触れるでない」
痺れを切らしたらしい元就が、後ろから政宗の首根っこを掴んで引き剥がした。
「元就。気安くも何も、あたししょっちゅう元就に触ってる気がするよ」
「主から触れるのであれば構わぬ」
澄まして答える元就。
理不尽だ、と思う。当然だけれど、平等でない。
「……何だかなあ」
元就は自分のものと言えるけれど、自分は元就のものだとは言えないのが狡い。
言おうとして止めた。
人間の機微に疎い彼に言った所で、首を傾げられるだけなのだから。
「そーいやFoxy Lord、アンタは何を契約に使ったんだ?」
首根っこを掴まれたままの政宗が、首を後ろにやって元就を見る。
元就は少し威張ったような表情で政宗を見返した。
「魂だ。悪いか」
その声に少しだけ、勝ち誇ったような響きがあった気がした。
蒼竜