シリフ霊殿
Schild von Leiden

目を閉じるその前に
 最後にもう一度だけ顔が見たい、と思った。
 そろそろだとは思っているが、待っているこちらがいつまで保つか分からない。
 久し振りに地に足を付けると危うく転びかけた。
 身体の支え方を忘れている。それとも支える力すら残っていないのか。
 柱と壁に縋るようにして廊下を歩いた。無様だな、と自嘲が漏れる。
 衰えた身体に、嘗て氷の将と呼ばれた男の威厳など欠片も無い。
 生き恥を晒す前に死を選ぶか、朽ちるまであの部屋で眠っていれば良かったのだ。
 けれどもそうまでしても最後にあれの顔が見たい。



「元就様!」
 己の姿を見つけた近習が駆け寄って来た。
「そのような格好で出られてはお身体に……いかがなさいましたか?」
「……#奈々は」
「元就様?」
「#奈々は何処に居る」
 発言が意外だったのか、近習は僅かに首を傾げた。
「#奈々殿でございますか?確か今は……」
「そろそろ戻って来る頃合であろう。何処に居る」
 正確に言えば此処はあれの『戻って来る』場所では無いのかもしれない。
 けれどあれは此処を尋ねる事をそう表現していたし、自分もそうしていた。
 戻って来た、と、惚けた表情で、間の抜けた声で、頭の悪そうな笑顔で、
 そう言って貰えるのを、何時しか心待ちにするようになっていた。
 近習がまだでございます、と残酷に微笑む。
「いらっしゃいましたらお伝え致します故、元就様は療養を」
「#奈々殿に会われるまでにはお元気になられる心持で居て下さらねば」
「こちらの羽織を。……部屋に戻られましたら薬師を呼びます故」
 連れられて廊下を歩きながら使えぬ者め、と呟く。
 今一番使えないのは#奈々を探そうとしないこの近習と、それから自分だ。
 療養などで治る見込みが無いのは、自分が一番良く分かっている。

 再び布団に戻ると一気に疲労が来た。身体が重くて当分起き上がれそうに無い。
 先刻廊下を歩いていた己は何だったのだろうという気さえしてくる。
 いつぞや人間気力で体力を上回れると言い張る馬鹿が居たが、
 それでは自分は#奈々の為にどれだけ気力を振り絞ったというのだ。馬鹿馬鹿しい。
 ともあれこれで確信した。やはり自分はそう長く保たない。
 身の回りの事は大体片を付けてある。自分亡き後も毛利は立ち行くだろう。
 勿論不安が無いとは言わないが、だから今自分が一番気に掛けるのは、
 自分の病状の事など一切知らずに何処ぞを駆け回っている阿呆の事だった。
 この冬は厳しかったから身体に堪えたのだと、春先に体調を崩し始めた時はそう言って誤魔化していた。
 そして向こうもそれを信じたからこそ躊躇無く此処を出て行ったのだろう。 
 あの時素直にただの病では無いと伝えておけば。
 考えてはみるが、実際には有り得ない事。
 そのような屈辱を自分が許せる訳が無いのだ。
 現に今こうして顔が見たいと願っていても、己の病状を#奈々に話そうという考えは微塵も湧いて来ない。
 ただ一度顔を見られれば、その後彼女がどうしようと構わなかった。
「……何時もは面倒な時に限って顔を出してゆく癖に」
 恨み言のように呟きながら、ゆるゆると意識が沈む。
 そうだ、あれは何時も面倒な時にばかり顔を出す。
 頼んでも居ないのに勝手に城に上がりこんで、我が物顔に振舞って、
 自分を無理矢理巻き込んで茶を飲んで、話して、笑って、
 そうして何事も無かったかのように出て行くのだ。
 元就側の気持ちなど汲んだ事は一度も無い。ただ自分の思うがままに動く。
 けれどもだからこそ元就も、彼女が自分の城を訪れる事に優越感を感じていられたのだ。
 少なくとも訪れたいと願う程度には、此処は彼女にとって心地良い所なのだと。
 定期的にやって来て世間話をしてゆく程度には、己は彼女に好かれているのだと。
 (……普段ならばもう来る時分であろう)
 だから早く、とは死んでも言わない。それが自分に残された最後の矜持だ。
 来る時分なのだからさっさと来るべきだ。こちらが会っても良いと考えている内に。
 この優越感がただの自惚れであったと気付いてしまう前に。





 ゆるゆると、どれ程眠っていたのだろうか。
 ふと目を開けると、板張りの天井の前に見慣れた顔が映っている。
「あ、元就起きた」
 能天気な声。
「もー、そんなに酷く体調崩してるなんて初めて聞いたよ。どうしたの?」
「……#奈々?」
 思わず確認するような呼びかけをしてしまう。
 返事はそうだけど、と相変わらず能天気だった。
「ご無沙汰ーって言おうとしたらここ最近寝込んでるって言われてさ。びっくりしたよ」
「……疲れが出ただけだ」
「何の疲れ?」
「貴様には分からぬわ」
「あ、ひっど!」
 大袈裟に傷付いた表情をしてみせてからけらけらと笑っている。暢気だ、と思った。
「……まぁ、そんな軽口叩けるくらいには元気そうで安心したよ」
 苦笑しながら席を立つ#奈々。
「何処へ行く」
「いや、久し振りに来たしちょっと家臣の人らにも顔出して来ようかと」
 自分の与り知らぬ間にそこまで彼女はこの城に馴染んでいたらしい。
 浅く息を吐き、言って来い、と呟く。
「貴様の顔を見たら気が抜けたわ。早う何処へなりと行け」
「……ほんっと相変わらず可愛くないわぁこの殿」
「疲れていると言ったであろう。眠らせよ」
「あ、うん」
 ぱたぱたと遠ざかる足音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
 戻って来て冷たくなっている自分を見たら彼女はどう思うだろうか。
 怒るか、悲しむか、或いは涙の一つでも零すかも知れない。
 どう思われようと構わない、所詮自分が死んだ後の事だ。
 毛利の為尽力してきた自分の最期の我侭とでも思って貰えば良いだろう。

 (……我ながらあんな女が最期の未練になるとは)
 今際、口の端が少しだけ持ち上がった。



愛ハムスター、ナリ様追悼として
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