世間が全て思う通りであるとは微塵も思っていないが、
幼少期の自分の朧気な記憶によれば、学校の保健室というのは消毒液の匂いが漂う清潔感溢れる空間であった筈だ。
「保健室で煙草を吸うな」
視界が霞む程の紫煙に咽返る心地がして、元就は盛大に眉間に皺を寄せた。
「ほえ?」
保健医は本日二箱目の煙草を開けながらきょとんと元就の方を見る。
口の端に加えた最後の一本からはまだ煙が立ち昇っていた。
粒子の大きさをXmolと仮定して保健室を覆い尽くすのに必要な粒子数は云々。
頭痛がして頭が回らない。
煙が目に沁みて涙さえ滲んできそうだった。
「我は煙草は好まぬ。控えよ」
「あたしの職場ですから。あたしが何しようとあたしの勝手」
言いつつも一応訪問者に気を使うだけの気遣いはあるのか、
箱を開けるのを止めて今咥えているものを堪能する事にしたらしい。
それでも鼻先に漂ってくる香りに眩暈がする。
「少しは医療現場らしくしようという気は無いのか。布が汚れる」
本来白である筈のシーツやカーテンは、ヤニに晒されて黄ばみつつある。
保険医の象徴である白衣にしてもそうだ。
本人は最近タール値減らしたから大丈夫だよーなどとのたまうが、それで吸う本数を倍にしては意味が無い。
指摘すると#奈々は煙を吐き出しながらははは、と笑った。
「良いじゃん、あたし色に染め上げるって感じで。ちょっと燃えるよね」
「燃えるか阿呆」
「……で?」
短くなった煙草を灰皿に押し付けて消す。
消しきれていなかったらしく細い煙が立ち昇っているが、最早咎められない。
「煙草嫌いで引き篭もりの毛利先生がこんな所来るなんて珍しいね」
普段理科室から出て来ない癖に。
眼鏡のレンズ越しに視線がぶつかり合う。
レンズに近い方の眼は不快そうに、遠い方は愉快そうに細められた。
「今日はフラスコやら試薬やらと睨めっこしてなくて良いんですか?」
「引き篭もりは貴様もであろう」
「あたしは人が来るまで待つのが仕事、あんたは捕まるまで人から逃げっぱ」
「……」
「何の御用?」
「……少々体調が優れないので昼の間休みたい。それだけだ」
「ふーん」
煙草を手放した指が物足りなさそうに机を叩いているが、吸う気は無いらしい。
とん、とん、と規則正しいリズムが昼休み前の保健室に響く。
「帰れば?」
「午後にまた授業がある。これしきで帰れるか」
「帰れば良いのに。きっと酷い風邪ですよ」
態々敬語を使ってくる辺り、元就の神経を逆撫でしたいのだとしか思えない。
当人に聞いても肯定が返って来るのだろう。
それに従ってしまうのが嫌で、大事無い、と吐き捨てた。
「大体診察もせずに何が分かるというのだ」
「学校では極力あたしに関わりたがらないあんたがここに来る時点で重症決定」
「……」
「まぁ良いや。今誰も使ってないから寝たければ寝てって良いよ〜」
睨め付ける元就の視線には気付いていないかのようにさっさと立ち上がり、
黄ばみかけたカーテンを引いて空いたベッドを見せる。
傍に寄れば予想に反して煙草の香りはせず、
傍若無人に見える彼女なりにきちんと彼や患者を気遣っているのだと分かった。
「放課後ぐらいに起こす?」
「昼の間と言ったであろう」
「もっと寝てって良いのに。きっと酷い風邪ですよ」
「二度も言うな。大体我が風邪である証拠など何処にも……っ!?」
どん、と突然来た衝撃に逆らえずベッドに倒れ込んで。
背中に柔らかい感触がすると同時に、例の煙草の香りが鼻を突いた。
#奈々が馬乗りになって自分と額を突き合わせているのだと少しして理解する。
「なっ……」
「動くな」
起き上がろうにも、シャツのネクタイをしっかり掴まれていて身動きもとれない。
うかつに抵抗すれば引っ張られて首が絞まってしまう。
仕方無く身体の力を抜いて大人しくしていると、やがて#奈々は離れた。
「うん、熱は無いかな。とりあえず昼休みの間寝てれば良いよ。
それで楽にならないようなら今度こそ帰るか放課後まで寝るかして貰うって事で」
けろりとして診察結果を述べる。
呆然と彼女の顔を見返すと、気が付いてにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「顔が赤いですよ毛利先生。熱出てきました?」
「なっ……馬鹿な……!」
「そうかなぁ。耳まで真っ赤だけど」
「……貴様の所為であろうが!」
「あらそう。なら責任とって熱下げるの手伝おうか?」
「要らぬ!」
「残念」
仄かに熱くなった額を一つ撫でて、#奈々は元就から離れた。
「ま、寝てる間は煙草我慢するからさー。ゆっくりお休み」
きっと、酷い風邪ですよ。
最後に食えない笑顔と捨て台詞を一つ残して。
カーテンを閉められると、幼少期の記憶そのままの保健室が現れた。
煙草の香りだけがまだ微かにベッドに残っている。
保健医というものが大好きです