シリフ霊殿
Schild von Leiden

温かい腕
 目が覚めるとお花畑の中に立っていた。
 ……いや違う、これは目を覚ましている訳じゃない。
 むしろこれから永遠に覚まさなくなるかもしれない。
 あれ、それとももう永遠に覚めない決定済みなのかな。
 だってあたしの前には大きな川。
 これは夢なのか現なのか、あたしはもう死んでいるのかまだ生きているのか、
 意識がはっきりしているのか朧なのかも分からない。不思議な感覚だ。
 話に聞くとこういう所ではよく死んだ家族や知人が川の向こうで手を振っていたり、
 時には現世へ帰れと追い返したりもするらしい。
 けどザーンネン、あたし忍びですから。家族なんていやしない。
 川の向こうには数多の亡者、あたしが殺した人然り仕事中に死んだ同業者然り。
 闇に呑まれて黒い蠢く手と化しているけれど、何故か皆何となく分かる。
 まぁ間違ってもあたしを追い返そうとはしてくれない事は確か。
 雰囲気からしてむしろ嬉々としてあたしを向こうに引き込もうとするに違いない。
 あんたらの中に入るなんて良い気分じゃなさそうだけど仕方が無い。
 こういうのは自力で戻るって難しそうだもんね。



 川へ踏み出す前に、一度だけ後ろを振り返る。
 立っていた向きからして、多分こっちが現世なんだろうと思って。
 一体どう行けば向こうへ戻れたのか、振り返っても深い霧で見通しが利かない。
 別に期待なんてしてなかったけど、見れるならもう一度だけ見たかったな。
 あたしがこの世で見てきたもの。あたしがこの世で出会った人達。
 忍びになる時に心など持ってはいけないと決めたのに、いつの間にか名残を惜しむ程に大好きになっていた。
 駄目だなぁ、忍び失格じゃないか。だから死んじゃうのかな。

 低く低く亡者達が唸る。
 さっさと来いという事か。はいはい、今行きますよ。
「待て」
 急に誰かが、歩き出そうとしたあたしを押しのけるようにしてあたしの前に立った。
 目の前には見慣れた後姿、見慣れた緑色の甲冑。
 赤黒く汚れているのはきっと戦の後だからだ。
「元就……様?」
 元就様は振り向いて視線で頷いた。
 けれどすぐに前を向き、川の向こうで蠢く黒い手を睨みつける。
「元就様、どうして此処に」
「話す必要はあるまい」
 うぅ、そりゃそうかもしれませんけど。
「怨みを飲んだ亡者共の成れの果てか。浅ましい事よ」
「すいません、あれ多分殆どあたし関連です」
「そうか。余り良い心地はせぬな」
「面目次第もございません」
「……まぁ良い」
 じゃぶ、と川の中に踏み込む音がしたので、慌てて甲冑に手を掛けて引き止めた。
「だ、駄目ですよこの川渡っちゃ!」
 そういえばどうしてあたしはこれが三途の川だという確信を得ているんだろう。
 こんなもの夢だと吐き捨てればお終いなのに。
「あの亡者共、貴様の知っている顔であろうが、恐らく狙いは貴様では無い。
 人の形も留めぬほど朽ちた者共に、最早個人への怨みなど残っては居らぬ」
 大体暗殺された人間が殺した人間が誰かなど知っている訳が無かろう。
 そういえばそうだ。言われて気が付いた。
 元就様に言われると何故か説得力があるように思える。
「単に他人を向こう側へ引きずり込みたいだけだ。其方で無くとも良い」
「え、でも」
 あたし以外の人って、今元就様しかいないじゃないですか。
 元就様は答えずにまた一歩歩を進めた。
 川に人が足を踏み入れたと亡者達が一際大きく唸っている。
 あたし以外でも構わないという確信にはなったけど、そんなものはいらない。
 引き止めた腕に力を込める。
 黒い手が手を伸ばして元就様に触れようとしたのが見えたからだ。
「離せ」
「なりません元就様、」
「貴様は戻れ。長曾我部がまだ残って居る筈だ」
「なりません」
「毛利家は最早揺るがぬ。太平の世に我のような人間は不要であろう」
「元就様……!」
「くどい」
 元就様があたしの胸倉を掴むのと、黒い手が元就様に絡みつくのと同時だった。
「我の命が聞けぬのか!行け!」
 どん、と突き飛ばされて後ろによろける。
 一瞬だけ頬に触れた、最初で最後の感触は、どこまでも温かかった。





 目が覚めると満天に人の顔。
「#奈々!目ぇ覚ましたか!」
「……長曾我部様」
 重い口を動かして声を発すると、色の濃い隻眼が一瞬だけ潤んだ。
「良かった……七日七晩眠ってたからよ、死出の山でも越えちまったんじゃねぇかと」
 死出の山。
 ああ、確かに越えてたかもしれない。
 死出の山は死者への試練だから、戻る時は一瞬なんだろうね。憶測だけど。
「まぁ、口が利けるならもう心配ねェだろ。今何か食うモン持って来てやるからな」
「元就様、元就様、は」
 ねぇ、どうして直ぐに答えて下さらないんですか。
 どうしてあたしの方を見ずに戻って来るんですか。
 嫌だ、立ち止まらないで。黙り込まないで。
 何も話さなくて良いから、笑って流して、そのまま出て行って。
「……つい、今し方だ」

 いや、

「お前の方が深手だったからな、息を吹き返すならあいつだと思ってたんだが……」
 嫌だ、そんな 生温い言葉なんていらない。
 あの方はいつだって真っ直ぐで、そうあの時でさえあんなに温かくて、
「なぁ、もうあんな冷たい奴なんか忘れちまえよ。
 こんな時に不謹慎だが……俺、ずっとお前の事……」
 ああ、元就様。



 何故冷たいと言われた貴方が、あんなにも温かかったのですか。



「馬鹿者」
 予想はしてたけどやっぱり第一声は罵声だった。
 この間の黒い手はもう見当たらない。
 憶測だけれど、元就様が祓ってしまったんじゃないだろうか。
 光の加護を受けておられる方だし。
「えへへ」
 何を言われても、あたしは誤魔化すように笑うしか無い。
 頭を掻きつつぺろりと舌を出すと、元就様が大きな溜息を吐くのが聞こえた。
「あっでも!後追い自殺とかじゃないですよ、ただ単に傷と病でですね」
「食事も医者も拒んだであろう。知らぬと思うな」
「……えへへ」
「全く、」
 じゃぷり、と川の中へ足を踏み入れる音。
「我がこちら側へ来た意味が無いではないか」
「だって、あたしは元就様のお側に居るとお約束しましたから」
「死人に忠義を尽くすか。阿呆の極みだな」
 元就様がこちらへ来るのを迎えるように、あたしも一歩二歩と水の中へ入った。
 向こうへ渡ってしまった者は、こちら側に上がる事は出来ないだろうと思ったから。
 思った通り、陸まで数歩の位置まできた所で、元就様はあたしの腕を引っぱって自分の側に引き寄せた。
 ……ん、この姿勢って。
「生憎だがもう戻してはやれぬぞ」
 聞きなれた声をこんなにも耳元で聞くのは初めてだ。
「……はい」
 背中に回された温かい感触を感じながら、あたしはただ黙って元就様に抱かれていた
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