シリフ霊殿
Schild von Leiden

甘えさせ上手
 このような時間に連絡も寄越さずいきなり押しかけるなど非常識だ。
 部屋の前に着いてチャイムを鳴らすまで、自分でも驚く程綺麗に失念していた。
 一目顔を見られれば良い、迷惑がられたらそのまま帰ろうと思い直したのだが、
「あれ、なりちゃん!? うわー久し振りだねえ、とりあえず上がって上がって」
 そうだ、そういえば彼女はこういう人間だった。
 簡素なソファに腰を下ろして、いそいそと台所に向かって行く背中を眺める。
 数年前から変わらない背中。
 意識せず安堵の溜息が漏れた。
「なりちゃん、晩御飯は食べて来たの?」
「いや、気を遣わなくても良い」
「じゃあスープ残ってるやつあっためるね」
「……人の話を聞かぬか」
「聞いたよー」
 ご丁寧にもわざわざ料理の鍋を火にかけ直しているらしい。
 この家には電子レンジが無いのかと見回せば、既に何やら使っている最中だった。
「なりちゃんがそういう言い方する時は、我慢してる時」
 目の前のテーブルにスープと、オーブンレンジから取り出されたトーストが並ぶ。
 スープだけでは足りないと判断されたのだろう。
 少々きまりが悪かったが空腹なのは事実であったし、
 どうせ家に帰った所でまともな食事を摂らずに寝てしまう事もまた明らかだった。
 素直に夜食に口をつけると、#奈々はにこにこと笑ってそれを見守っている。
「美味しい?」
「……ああ」
「そっか」
 見られているこちらとしてはかなり気恥ずかしいのだが、#奈々は一向に気にしていないようだ。
 かといってあまり見ないでくれときっぱり言う事も出来ない。
 結局二枚の皿が空になるまで、二人は無言のままテーブルに向かい合っていた。
「#奈々……済まない、その」
「あーあっ!」
 せめて一言なりとも礼をと口を開いた途端、皿を重ねて片付けながら#奈々があからさまに大きな声で溜息を吐いた。
「遂になりちゃんに呼び捨てにされちゃったー。
 昔は可愛らしく#奈々お姉ちゃんって呼んでくれてたのになー、あーあ悲し」
「なっ……よ、呼べるか、この歳で!」
 大体いい歳をして未だになりちゃんなどという呼称で呼ばれるのも恥ずかしいのに、
 止めろと言う度この女はにっこりと笑ってはぐらかしてしまうのだ。
 笑顔一つで何も言えなくなってしまう辺り、とことん彼女に頭が上がらない。
「じゃあ#奈々姉さんとかでも良いよ?」
「変わらぬ!
 大体実際に血が繋がって居る訳でも無し、わざわざ姉と称する必要は無かろう」
「ぶーぶー、なりちゃんの意地悪ーっ」
 頬を膨らませながら、#奈々は皿を手に台所へ戻って行く。
 何の気無しにその背を見送っていると、不意にぐらりと視界が揺れた。
 (眩暈……? 否、)
 これは眠気か。
 自覚した途端またぐらりときて、慌てて姿勢を正す。
 台所から仄かに香って来る洗剤の匂いが更に眠気を煽った。
 情けない。腹がくちくなったら今度は睡眠などと、まるで本当の子供のようでは無いか。



「なりちゃん?」
 直ぐ傍で響いた#奈々の声に、落ちかけていた瞼を無理矢理こじ開ける。
「眠いの?」
「いや……」
「眠いんだ」
 違う、と言い直す気力は最早残ってはいなかった。
 #奈々はエプロンで濡れた手を拭きながら、直ぐ隣に腰を下ろす。
「お昼寝する?」
 ぽんぽん、とエプロンを外した膝が叩かれる。
 この上にこのまま頭を乗せれば、さぞ心地良い枕になるだろうが。
「夜も更ける時分に昼寝は無かろう」
「じゃあ夕寝」
「……明日は、会議が……」
 こんな所で眠ってしまったら、きっと朝まで起きられない。
 八時には自宅に帰り着いて、あの秘書の処分案と会議用の書類を纏めて、
 九時過ぎには自宅の前で運転手が来るのを待っていなければならないのに。
「なりちゃん、運転手さんとかいないの?」
「一応、居るには居るが」
「秘書さんは?」
「居る」
「会議って何時から?」
「十時……何だ、いきなり」
 んー、と生返事をして、#奈々はしばし壁の時計を見つめた。
「会社までってどのくらい?」
「家から車で四、五十分といった所か」
「ううん、なりちゃん家じゃなくってここから」
「……二、三十分」
「じゃあ、明日八時半に起こすね」
「は!?」
 思わず大声を出してしまった。
 #奈々は相変わらずこちらを向いてにこにこと笑っている。
「なりちゃん真面目だから、多分秘書さん達の連絡先も控えてあるでしょう?
 だからそこに電話して、明日はここに迎えに来て下さいって言えばいいの」
「……横暴な」
「うふふ、立ってる者は何とやら。私だって昔よくなりちゃんにお手伝いさせたじゃない」
 確かに丁度良いと言って使い走りをさせられた事は何度もある。
 尤も彼女の場合は食卓の上にある皿を纏めて持って来いだの、
 帰って来るまでに掃除をしておけだの他愛も無い事が多かったが。
「その会議の書類っていうのも連絡して秘書さんに持って来て貰えばいいしね」
「……我と我の部下を同列に見ぬ方が良いぞ」
「一緒じゃない。言う事聞いてくれれば」
「?」
「例えば、お庭の盆栽壊しちゃったの小父さんに黙っててあげるから……とかね」
「何時の話だ!」
 微妙に今の秘書の立場に重なる事があるだけに油断ならない。
 使い走りに出来る上に、辞令を作る必要も無くなる。
 まさかとは思うが、全て承知の上での行動なのだろうか。



「はい、やらなきゃならない事おしまい」
 再び軽く膝が叩かれる。今度こそ有無を言わせず寝かせるつもりらしい。
「後はなりちゃんが寝るだけ」
「っだから、」
「夜は寝るのがお仕事!」
 ぐい、と強引に頭を掴まれ、視界が九十度回転した。
「なりちゃんが寝たらクッションでも持ってきて、私も寝るから」
 温かい。
 目を閉じて寝返りをうち、顔を#奈々の方に向ける。
 先刻の洗剤よりも良い香りが鼻を掠めた。
 幼い頃からずっと慣れ親しんできていた筈の匂い。
 (嗚呼、やはり)
 傍に居て貰うのならば、彼女が良い。唐突にそう思った。

「おやすみ、なりちゃん」
「お休み、    」



 最後に彼女を何と呼んだのかは、自分自身にも判別がつかなかった。



企画サイト様へ。おねショタ的雰囲気が欲しかった
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