シリフ霊殿
Schild von Leiden

兎の瞳
 頭痛で目が覚めた。
 これは鈍痛とでも表現すれば良いのか、殴られた後頭部が響くように痛む。
「起きたか」
 思わず上げた呻きで察知したのか、前方から声がかけられた。
 俯いていた顔を上げて前方を注視する。
 頭を動かした事で頭痛は激しくなり目の前が霞んだが、これは観念するより無い。
 一瞬後に鮮明になった視界では、廃墟と思しき建物の中銀色の髪をした男が座り込んでいた。
 廉恥心の有無を問いたくなる程露出の高い衣服を身に纏い、左目を皮製の眼帯で覆っている。
 成程これが先刻我を襲った者達の頭か。
「手荒な真似しちまって悪かったなぁ。出来れば怪我はさせんなって言っといたんだけどな」
 言外に抵抗した己が悪いと言われているような気もする。
 尤も、大人しく従った所で結果は同じだったのであろうが。
「悪いと思って居るのならば、これを解け」
 意識を失っている間にされたのであろう、後ろ手に戒められた両手を示して言うと、
 男はこちらを嘲笑うかのように殊更大きな声で笑った。
「そいつは出来ねえ相談だ。アンタにはちっとばかし人質らしくしてて貰わねえとな」
「人質……だと?」
 そうだ、と言って男は席を立ち、我のすぐ目の前に座り込んだ。
 正面から顔を覗き込まれる。
「アンタ、の知り合いなんだってな」
「それがどうした」
 親しい間柄とは言い難いが知人ではあるし、本人からも先日そのように周囲に紹介された覚えもある。
 否定する理由も無いので素直に認めると、男は喉の奥で笑った。
 どうもこの男の笑い方は癪に障る。
「っは、あいつも隅に置けねえな。適当に遊ぶかあしらってると思ってたんだが、
 まさかこんなの抱え込んで可愛がってたなんてよぅ」
 話を聞いただけで先日の出来事を思い出して羞恥が込み上げて来る。
 あのような不名誉な事、早く忘れてしまえば楽だというのに、
 こうして事ある毎に脳裏に浮かんでくるばかりで一向に消える気配が無い。
 しかもどうやら話の内容から察するに、
 この男は我と#奈々が交際関係にあると思い込んでいるようではないか。
 ……冗談では無い。
「貴様、我の事を何処で聞いた」
 試しに問うてみると、男は意外にすんなりと白状した。
「何、仲良く夜の街走ってるアンタらを見かけたもんでな。ちっと調べたんだよ」
 隠してたつもりか?と馬鹿にしたように言われたがそれはどうでも良い事。
 この男が見かけたというのは恐らく送ってやると言われたあの時の事であろう。
 家に押しかけて来なかった事を考えると、住所までは突き止めていないらしい。
 とすれば調べたといっても、あの場にいた人間を少々脅して吐かせた程度のもの。
 住所はおろか我と#奈々の詳しい関係すら分かっては居るまい。
 それを交際関係と曲解した上、今日まであの近辺で我を探し回っていたのか。
 ご苦労な事だ、と他人事のように思った。
「……所詮、貴様等の情報網などその程度よ」
 知らず洩らした一言が、どうやら男の癇に障ったらしい。
「ンだと……!?」
 胸倉を取られ、身体が僅かに浮く。
 拘束された身体では、精々睨み返してやる位しか抵抗の術は無い。
「何を根拠にしたか知らぬが、我と#奈々が交際関係にあるなど短慮にも程がある。
 大方貴様等の下世話な思考で思いつくのはその程度という事か」
 #奈々の名を口にするだけで、愚かしい程に身体の熱が上がってゆくのを感じる。
 いっそ本当にそのような関係であったら、と束の間考えた。
 それならば口付けの一度や二度交わしていても可笑しくは無いし、
 今こうして無駄に悩まされる事も無かった筈だ。
 そこまで考えて、何を馬鹿な事をと自分を戒める。そのような事、ある訳が無い。
 あれにしてみれば本当に巫山戯の延長だったのであろう。
 それならばこちらが情をかけるだけ無駄というものだ。
「言っとくがな、綺麗な顔してるから手加減して貰えると思ってたら大間違いだぜ」
 男の眉間に更に皺が寄った。
 胸倉を掴む力が強くなる。服の釦が一、二個弾けて飛んだ。
 その手が不意に放され、受身も取れぬまま地面に投げ出された。
 硬い床に強か身体を打ちつけ、胸を打った為か数度空咳が出る。
 生理的な涙が目尻に滲むのが分かった。
 あれと再会してからこちら泣いてばかりのような気がする。情けない。
「これでちったァ懲りたか?」
 見下ろして来る男の視線に、やはり睨み返す事しか出来ない。
「女ならもう少し遊んでやりようもあるんだが……いや、男でも出来ンだったか?」
「……愚劣な」
「何言ってやがんだ、その愚劣な奴の同類に惚れてる癖してよ」
 違うと何度言えば分かるのだこの男は。
「巫山戯るな!誰が……」
「顔が赤いぜ、お坊ちゃんよ」
「っ、」
 それは貴様が大きな声を出させた所為だと言えば良かったのだ。
 事実原因の少なくとも半分はそちらであったに違いない。
 にも関わらずまるで図星を指されたかのように言葉が出なくなって、
 辛うじて違う、と絞り出した声は己でも分かる程に弱々しかった。
 嗚呼もう全てがあの女の所為だ。
 あれがあの時話しかけて来る事が無ければ、このように思考を乱される事も、
 そもそもこのような目に遭う事も無かったのに。



 遠く、エンジンの唸る音が聞こえる。
 音が近付いて来るのを感じて、まさかと顔から血の気が引いた。
「アニキ、大変だ!の奴が……」
「な、」
 会話は鈍い破壊音に打ち消された。
 凭れ掛かっていたすぐ脇の壁が派手に破壊され、破片が目の前を掠める。
 驚く間も無く腕を掴まれ再び身体が宙に浮いた。 
「よっ、と」
「……#奈々」
「あー話は後だ!飛ばすから掴まってろよ、就」
 掴まって居ろも何も、縄を解いて貰わなければ手の動かしようが無いのだが。
 言うと#奈々はああそうだったな、と言って片手で我の腰に手を回して支えた。
 ……解くという選択肢が無いのか、こやつには。
「返して欲しきゃ一人で来い、だったな?
 一人で来たし就はもう返して貰った。つー事でもう帰らせて貰うぜー」
 恐らくあの銀髪の男に向けて言ったのであろうが、
 見れば#奈々が壊した壁の破片を頭に喰らって昏倒している。
 死んで居なければ良いが、とふと思った。
 別に哀れみなど感じる訳では無いが、我の所為で#奈々が罪人になるのは何処と無く後ろ暗い。





 親の帰りが遅い事をこれ程幸運に思った事は無かった。
 家の前に壊れかけた大型バイクが停まっているなど、見られたら何と言われるか。
「就、大丈夫だったか?あの乳首に絶対変な事されただろ」
 縄で擦れた手首に包帯を巻いて呉れながら#奈々がぼやく。
 思い返せば確かに無礼な事をされた気はするが、#奈々があれにした事を考えれば釣りが来そうなものだ。
 気にして居らぬ、と言うと溜息を吐かれた。
「気にしろよ、お前一応男だろうが」
 一応とは無礼な。
「それより何故あのような無茶をした」
「無茶かぁ?そりゃ確かにバイクは微妙に壊れたけどあれは借りた奴だし……」
「他人から借りた物であのような阿呆をやったのか貴様は!」
「阿呆って何だ阿呆って!」
「貴様、あの時我が何処に居たか知って居るのか!阿呆と言わずして何だ!」
「いーだろ結局無事だったんだから!」
 これでよくも無傷で帰って来れたものだ。今更ながらに冷や汗が出た。



「……悪かったな」
 急に#奈々の声の調子が変わった。
「何がだ」
「いや、巻き込んじまって。これは完全にあたしのせいだし」
 昔はすぐに謝る子供だったという記憶がある。
 今はこうして殊勝な態度を見せているのすら珍しいと感じる程なのだが。
「マジごめん、あたしが皆の前で知り合いとか言ったりしたせいだよな」
 包帯を巻く手に力が籠もる。傷口が圧迫されて痛い。
 反省しているのは周囲に我を関係者だと認知させた事についてのみのようだ。
 確かにこちらは誰にも見られて居らぬが……我にした事に対しては謝らぬのか。
「……ほう、貴様にも罪悪感というものが有ったとはな」
「なっ!ひっでえ!あるよ!無いように見えんのかよ!失礼な!」
 試しにからかうように言ってみると、予想以上に反応が返ってきた。
 先刻の反省が嘘であるかのように喧しい。
「建物を中に居る人間ごと吹き飛ばした人間が何を言うか」
「あれは良いんだよ!」
「あの男には罪悪感は感じぬが、我にした事に対しては反省して居ると?」
「……まぁ、そんな感じ」
 苦笑している。恐らく自分でも適当な事を言っているという自覚はあるのだろう。
 己の感情のみで動く人間に、筋の通った説明を求めるだけ無駄というものだ。


「では、我にした事に対して責任を取る気はあるのだな」
「へ?」
 #奈々は実に間の抜けた顔をしてこちらを見た。
「無いのか?」
「あーいや、あるっちゃあるけど……あー……」
「何だ」
「……いやその」
 後ろ暗そうに他所を向いて頬を掻いている。
 目だけが横目で我の方に向けられた。
「責任って具体的にどう取る訳?あたしとして思いつくのは金払うのと……」
「ほう、金さえ払えば事は済むと。貴様我を売春婦か何かのように思って居るのか」
「えーと……後殴らせろとか?」
「……」
 そういえば何故かその考えは今まで浮かんで来なかった。
 あの男と話していた時は確かに、会ったら殴ってやりたいと思っていたのに。
 殴ればこの女は本当に全てを水に流してしまうような気がしたからだろうか。
 考えてみれば、その気になれば#奈々の家に怒鳴り込む事も出来た筈だ。
 これの親は殊更厳しいという訳でも無かったが、不義を叱らぬ程の放任でも無かった。
 今の家庭環境がどうあれ、元があれならばこの行為に怒らぬ道理は無い。
 こうしてみれば幾らでも浮かんでくるのに、今まで何一つ思いつけなかったとは。
「他に責任っていうと、」
 変わらず細いままの#奈々の腕が首に回る。上半身に暖かい感触がした。
 ……抱き締められて居るのだろうか、これは。
「あたしはこれくらいしか思いつかないんだが」
 嗚呼、情けない。情けない上に腹立たしい事この上無い。
 八百屋のお七でもあるまいし。
 何故あの時の道を用も無いのに回って帰ったのか。お陰でこの様だ。
「……それで良い。我にあのような事をしたからには責任は取ってもらうぞ」
「だからお前その貞操観念は今時おかしいって。明治時代のお嬢じゃあるまいし」
「うるさい!」
 腹いせに#奈々の服の背中を握り締めると、素直じゃないなと返って来た。
 そのような事は己が一番理解している。
「まー今すぐは難しいが、責任取ってちゃんと嫁に貰ってやるから」
「だから何故我が……!」
「そりゃー当然就のが、」
「っ」
「可愛いからだろ」



 近付いて来た顔を、今度こそ殴り飛ばしておいた。



タイトルは対比させたかっただけです
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