シリフ霊殿
Schild von Leiden

片羽の比翼
 豪華な内装に反して、地下への階段は酷く質素な造りの石段だった。
 慶次自身この城の間取りや構造をしっかり把握している訳ではないが、
 恐らく本来は罪人や捕虜を閉じ込める為の地下牢だったのだろう。
「……それで?毛利さんが入信したって聞いたけど」
 あの人一体どうしてるの?と聞いた途端ここへ案内されたのだ。
 何故いきなり案内されたのかも分からなければ、彼がどうしてこの先に居るのかも分からない。
 噂で聞いた話では幹部として破格の待遇を受けているというが、それにしてはこの地下は余りに寂れている。
 それとも、この階段を下りた先にはまたあの煌めく廊下が続いているのだろうか。
「ウフフ、ケイジはイイ人ダカラ、ザビーのヒミツ教えてあげるヨ」
 前を歩いていた教祖がこちらを振り向いて悪戯っぽく笑った。
「サンデーはとっても頭いいタクティシャーン!
 いっつも考え事してるケド、ザビーが聞けば何でも教えてくれるネー」
「へぇ……なんか意外だな、あの人がこんなとこに居るなんてさ」
 少なくとも愛など下らないといって鼻で笑いそうな気はする。
「ザビーが入ってネッてお願いしたらイッパツデシター!
 でもサンデー、ちょっと怪我してるから時々こうして見に行ってあげなきゃネ」



 階段を下りきった先はやはり質素な石造りの部屋だった。
 聞けば、彼は入信時に初めて入ったこの部屋をいたく気に入り、それからも決してここを離れようとしないのだという。

 部屋と同じ石造りの扉を開けると、むっとするような血の臭気が漂ってきた。
 成程怪我をしているというのは嘘ではないらしい。
 元はやはり地下牢だったのであろう、広いとは言い難い一間の部屋。
 不可思議な文様が描かれた壁の半分程を占める豪華な異国の寝台が置かれ、
 絹で出来た布団や銀製の燭台などが所狭しと並べられている。
 いくら入信したとはいえ、毛利元就本人がこのような品を好むとは少し考えにくい。
 恐らくザビーがご機嫌取りにと持ち込んだのだろう。
 ……また島津のじいちゃんみたいに強引に連れてきたんだろ。
 相変わらずな知人に苦笑が漏れた。
 やりすぎないようにと後で釘を刺しておこう、と。
 当のザビーは狭い一間をきょろきょろと見回し、幹部を探している。
「いタ!モーサンデー、バンソーコ貼ったばっかりなのに剥がしちゃ駄目デショ!」
 異国製の大きく柔らかい座布団の影に隠れるようにして、お目当ての人物は座り込んでいた。
 その右手をザビーが握り、包帯を巻かなければなどとしきりに心配している。
 近付いて見てみれば、爪が割れ、滲み出た血が指先から滴っていた。
 痛いだろうに、と思わず顔を顰めるも、当人は平素の無表情のままだ。
 その視線は自身の傷口は愚か、ザビーの方を見てもいない。
「……毛利さん?」
 恐る恐る声をかけると、サンデーはゆるゆるとこちらを振り向いた。
 虚ろな瞳が、一瞬だがしっかりと慶次を捉える。
「……前田の甥か」
「うん、そうだよ。どうしちまったんだよ、こんな怪我してさ」
 慶次の言葉は果たして届いていたのかどうか。
 怪我人の唇が不意に笑みの形に歪んだ。
 そのままゆっくりと、一首の歌を紡ぎ出す。


「忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで」


「毛利……さん……?」
「ふ、何を呆けている。貴様、このような我が見たかったのであろう?」
「なあ、あんた一体どうしちまったんだよ、なあ!」
 肩を掴んでぐらぐらと揺する。
 サンデーの右手がゆっくりと持ち上げられ、慶次の頬に触れる。
 ぬるりとした感触。
「どうも何も。我も恋とやらをしたまでよ」
 貴様、恋が好きであったな。恋をする我が見たいと言っていたではないか。喜んだらどうだ。
 目尻がまだ、ほのかに赤い。
 泣いたのだろうか。こんな焦点の合わない瞳のまま。誰かを想って。
 恋煩い、という言葉が浮かんで消えた。 
「も……!」
「モータクティシャン、壁に落書きしちゃダメヨー」
 更に語りかけようとした慶次の言葉を、ザビーの能天気な声が遮る。
 落書きとはどうやら壁に一面に描かれた模様のことであるらしい。
 (いや違う、これは……模様なんかじゃない)
 彼の爪が割れていたのは恐らくこれの為だろう。
 異国の鳥の羽のような筆は彼の手には馴染まない。部屋を見回しても、長い文面を記せるだけの長さの紙が無い。
 地下牢の中で筆も紙も見付けられなかった彼は、代わりに自分の血と壁を使ってこれを書いたのだ。
 赤黒いその筆跡は筆で書かれるよりは幾分読み辛く、意識して読むまで文字だと認識出来なかった。
 壁一面を使って長々と書かれた、漢詩。
 ザビーには当然文面は理解できないのだろうが、
 京の文化人と名を馳せる者として、漢の書物なら何冊か嗜んだ事がある。

 『六軍不発無奈何 宛転蛾眉馬前死』
 『君王掩面救不得 回看血涙相和流』

 (長恨歌……かな?)
 確か妃の死を悲しむ王の歌だった気がする。
 智将と呼ばれた男ならば、常識の範囲内として十分知っているだろう。
 何故か最後の数行だけ抜けているが、
「……ザビー」
「ナーニ?」
「あんた、毛利さんに何をしたんだ」
 意味も無くこのような歌をこんな風に書きなぐったりする筈が無い。
「あれは考え事なんかじゃない。恋煩い……恋しすぎて心が壊れちまってるよ。
 あんた一体あの人に何をしたんだい?」
 ザビーは言いにくそうに唇を尖らせた。
「ザビー、タクティシャンには何もしてないヨ。#奈々チャンにお願いしてもらっただけダカラ」
「#奈々……?」
「サンデーのオトモダチ。いつも一緒で、スゴク仲良しだったノ。
 だからザビー城に連れて来て、ザビー教に入るよう言ってネってお願いしたのヨ」
 お願いしただけとは言うが彼の事だ、人質を取っての脅迫紛いなやり方だったに違いない。
「……それ、その子今何処に居るんだい?」
「あのコはザビー教に要らなかったカラ、スマキにしてセトウチ・オーシャンに……」
「ってめぇ……!」
 怒りに任せて大きな胸倉を掴む。
 ザビーは訳が分からないという顔で慶次を見下ろした。
「ダイジョーブヨ、ちゃんとアニーキのお城の近くにポイしたから」
「いくら元親だって、瀬戸の海全部に目がある訳じゃない!」
「死んだ異教徒ダケガ良い異教徒。コレ、ザビー教の教えネ」
「っ……!」



「……嗚呼、まだ書き上がって居らぬのであったな」
 眼前の睨み合いなど見えていないかのように、サンデーがゆらりと立ち上がった。

 『七月七日長生殿 夜半無人私語時』

 最後の文の左上に指を置き、まっすぐ下へと滑らせる。
 細い指に罅が入るように爪が割け、血が噴き出す。
 それを墨の代わりにして、彼は次の一文を書き始めた。

 『在天願作比翼鳥 在地願為連理枝』

 玄宗帝と楊貴妃の誓いの場面だ。
 『天に在っては翼を並べて飛ぶ鳥となり 地に在っては共に伸びゆく枝となろう』 すい、と指が次の行へ移る。

 『漢皇且希況我乎 此怨綿綿無絶期』

 一瞬で顔から血の気が引くのが慶次本人にも分かった。
 文面が違う。
 本来ならば『天長地久有時盡 此恨綿綿無絶期』と続く筈である。 


「漢皇スラ且ツ希ヒキ況ンヤ我ヲヤ 此ノ怨ミハ綿綿トシテ絶ユル期無カラン」
 漢の王ですら願っておられた事を、どうして私が願わない筈がありましょう。
 この怨みは綿々と続いて 絶える事は無い。





 不意に、慶次の頬を何かが掠めた。
 隣に居た男がぐらりと傾いで仰向けに倒れる。
 凝った装飾の紙切り小刀が、その喉笛に突き立っていた。
「……手元が狂ったか。一撃で仕留めるつもりであったが」
 小刀を投げた体勢のままサンデーが言った。
 止めを刺そうとこちらへ近付いて来るのを、咄嗟に抱きすくめるような形で止める。
 先刻まで何の感情も映していなかった眼には、はっきりと何かが浮かんでいた。
「待てよ!」
「放せ。邪魔をするなら貴様も殺すぞ」
「あんたの気持ちは分かるけど、何もいきなり……」
「この男は我から#奈々を……比翼の片羽を奪ったのだ。当然の報いであろう」
「まだ死んだって決まった訳じゃないだろ?元親の事だから、きっと」
「貴様、我の話を聞いていなかったのか?」
 狂気に彩られた瞳が慶次を見上げる。
 彼が右手に握っている小刀は、抑えていなければそのまま慶次へ向けて振り上げられるだろう。
「『我の』#奈々はもう居らぬ。居るのは長曾我部の隣に居る#奈々だ。
 ただ#奈々と同じ姿をしているだけの女を何故生かしておかねばならぬ」
「そんなの行ってみなくちゃ分からないだろ!
 ……大丈夫、きっとその子は無事で、あんたの事を想ってくれてるよ」
 それは半ば慶次自身へ向けての言葉でもあった。
 きっとその#奈々という子も無事で、ザビーも無事で。そして全てが丸く収まる。
 自分の言葉は彼に届いているものと、信じたかった。
「……そうだな。骸であれば、二度と我の傍を離れる事もあるまい」
 残酷な笑顔。
「毛利さん……」
 頬を伝う雫は、もはや涙を流す事も諦めた彼の代わりであろうか。
 少しずつサンデーの視線が冷たくなっていくのを感じながら、慶次はただ彼を抱きしめていた。



「思い出してくれよ。あんたが一番幸せに恋してた時の事をさ……」



サンデーが可愛すぎて遂にヤンデレさせました期
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