シリフ霊殿
Schild von Leiden

氷襲
「捕虜の様子見に行ってきまーす」
 言い残して席を立つと、ざわりと場に戦慄が走った。
「#奈々、お前よくあんなとこ行けんなぁ」
「はい?」
 誰かが恐る恐る声をかけてくる。
 あたしは訳が分からずに首を傾げる。
 だって、世話嫌がってあたしに押し付けたのあんたらでしょう。
「俺、あの牢怖くて近寄れねえよ」
 一人が何かを思い出したのか、自分の肩を抱いて震えだした。
 はっきり言ってあたしにはこの人たちが怖がる理由がよく分からない。
「どうして?毛利元就は縄抜けの術でも心得てるんですか?」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「じゃあ大丈夫でしょう。後ろ手に縛られたまま刀振り回せる人がいたらすごいですよ」
 実際彼がそのような妙技に及んだ所を見た事はない。
「刀なんかじゃねぇんだ。あの、目が」
「目?」
「ああ、俺も初めて見た時は身が竦む思いだった。ただの人間に、あんな目が出来ようとは」
「あれが毛利軍の兵士を駒にしたという、氷の眼か」
「もしあの眼に睨まれたらと思うと、怖くて」
「……ふぅん」
 皆さん、あれが『怖い』んですか。
 何の気なしに呟いた一言を先輩が聞きとがめて、更に怯えた。
「お前、肝が据わってんなぁ」
「据えた覚えはないんですが。まぁ、じゃあその氷の眼とやらの所へ行って来ます」





 毛利元就は今後の為に生かしておく、と大殿が仰った時、
 まず皆の間で話題になったのが、誰を毛利の一番傍へ置くのか、という事。
 別に特別な待遇も何も無い、ただの捕虜になった敵大将なのだけれど、
 捕らえられ皆の前に引き出された時の、
 それでも大殿を睨みつけて「殺せ」と言った時のその眼に誰もが圧倒されていた。
 ただ睨んだだけじゃない、本能的に他者を怯ませるような(そう、まるで手負いの獣のように)
 近づいた者全てを無差別に食い殺しそうな攻撃的な眼。
 それでいてその眼の奥は氷のように澄んでいて、何の感情も見出せない。
 あの眼を初めて見たその時は、確かにあたしも少し驚いた。そして恐怖した。
 ただの人間にあんな眼ができるものなのか、と。
 それでもあたしがこのお役目を拒まなかったという事は、
 堂々と認めはしないけれど、多分、やっぱり肝の在り所が少し変わっているのかもしれない。



 牢に着いて、鍵を開ける。
「お食事をお持ちしました」
 返事はない。
 この牢であたし以外の人間の声がする事自体稀なので、
 あたしは気にせず作業を続ける。
 お役目を始めて随分になるけれど、まだこの人の声を碌に聞いた事がない。
 あたしみたいな端女と口を利くなんて、と思ってるのかもしれない。
 それはある程度予想がついていた事だからさして気にもならないのだけれど、
 寂しいのは彼が滅多にあたしに視線も向けてくれない事だ。
 今だってそう、さしたる抵抗も見せず大人しくはしているけれど、
 その眼は伏せられていて決してあたしの方を見ようとはしない。
 そのまま牢を去ってしまうのが何だか名残惜しくなって、
 こっち見てくれないかな、そんな甘味処の看板娘に恋をした少年のような気分で、
 あたしは毛利の目の前に座り込み、彼が目を開けるのをただ待っていた。



「用向きは済んだであろう。疾く去れ」
 食事が終わってもその場を去ろうとしないあたしに痺れを切らしたらしい。
 それでもあたしは動こうとはせずに、ただ黙ってこの氷の虜囚を見つめていた。
 あたしが動かないので、毛利はもう一度去れ、と言った。
 いつだか殺せ、と言った時と同じ語調だった。
 けれどその眼は閉じられたままで、あたしの方を見てはくれない。
 つまらない、とあたしは思った。
「あなたの言う事は聞きたくありません」
 だからそう言って逆らうと、閉じていた眼がようやく少しだけ開いて、
 横目であたしを睨んだ。きつい眼だ、と思った。
「殺されたいのか?」
 もしこれがあたしにこのお役目を押し付けた先輩達なら、怯えて腰を抜かして逃げ出していた事だろう。
 (時々ここを度胸試しの場に用いている馬鹿が居る事をあたしはこの間知った)
 けれどあたしを睨んだ眼はきつくこそあれ望んでいたものではなかったので、
 あたしはやっぱりつまらない、と思いながらその場に留まった。
 嗚呼もし貴方があの眼をもう一度あたしに見せて下さるならば、今この場で殺されたって構わないのに。
 或いは貴方のその眼が命ずるままに貴方をこの牢から逃がしたって良い。
 きっとあたしはかつて毛利の軍がそうであったようにこの人の命ずるままに動く駒となるのだ。
 賢しき策士様、もし貴方がそれを実行して下されば、
 そうすればこの状況下から大殿を討ち取る事だって不可能ではないでしょうに。
「逃げようとは、なさらないのですね」
 心の中にぐるぐると浮かんだ考えをあたしがそうそう口に出来る筈も無く、
 やっとそれだけ言うと策士様はただふっと鼻で笑った。
「自害でもなさるおつもりですか?」
 震える声でまたそれだけ言うと、彼はまたちらりとあの眼であたしを見た。
「我が死ねばもうここへ来なくて済むとでも思ったか?」
「……いいえ」
 その逆です。貴方のその眼が二度と見られなくなるのが惜しいんです。
 賢しき氷の策士様、この気持ち貴方には到底理解など出来ますまい。



「また明日も、参ります」
 あたしの声が心なしか沈んでいたのを彼は察しただろうか。
 察したとして何故沈んでいたか理解できただろうか。
 立ち上がりながらあたしはもう一度毛利の顔を見た。
 先刻まであたしを睨んでいた眼は再び閉じられていて、開く気配は無い。
 彼が明日舌を噛み切っていない事を願った。



相互さんに差し上げたもの
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