シリフ霊殿
Schild von Leiden

月が傾く
 開いた障子の隙間から月光が漏れている。
 月を仰ぎ見れば、血のように紅かった。
 魔性の紅い月。
「嫌な、時に……」
 息苦しさに寝着の上から胸を押さえ、爪が食い込むほど強く掴む。
 身体の中で自分でない何かが蠢く感触は恐ろしく不快だ。
 それは体内でのたうち、暴れ、ともすれば元就自身を内から喰らっていこうとする。
 まるで、血の色に触発され興奮するかのように。
「ぐっ……!」
 誰かに救いを求めるように差し出した左手はいつの間にか寝具を握り締めていた。
 口の中に広がる鉄の味に、噛み締めすぎて唇が切れたのだと知る。
 しかしその痛みさえも内の狂気を鎮める助けにはなってくれず、
 むしろ狂気の側を悦ばせ増長させるだけだった。



 衣擦れの音がして顔をあげる。
「眠れぬのか。性とはいえ、哀れな事よな」
 一体何時の間に、如何して不寝番の目をかいくぐったものか。
 庭からの月光を遮るようにして、女が一人、目の前に立っていた。
 逆光で顔ははっきりとは見えないが、人に非ざる美しさがある。
「徒に抗うから、そうして苦しむ事になる。いっそ素直に身を委ねてしまえば楽になれるものを」
 女の長い髪と十二単のような着物が、動く度に軽い音をたてた。
「貴様は、誰だ」
 月光が隠された為に少し楽になった息で、言葉を紡ぐ。
 女は元就を皮肉るように笑った。
「人の子が知る必要などあるまいよ」
 顎の下に軽く指をやって顔を持ち上げ、正面からまじまじと覗き込んでくる。
「内の鬼は中々良い塩梅か」
 視線を逸らそうとしたが、指に込められた力は強く、動かす事が出来ない。
 愉しそうに微笑う女の顔が、眼に飛び込んでくる。
「人と鬼とが鬩ぎ合う苦痛……其方、中々に愛い顔をしてくれるな」
 空いたもう片方の手を伸ばして元就の青白い頬を愛おしそうに撫でる。
「たかが人の身にこれ程の鬼が宿るのも珍しい。
 今までにその手で何人殺してきた?人の血も、怨嗟も相当に吸ってきておろう」
「黙れ……斬られたいか!」
 武士の嗜みとして、刀の一振りは常に傍に置いている。
 いざとなれば手にとって、一太刀なりとも浴びせるだけの体力は残っていた。
 例え相手が化生の者だとしても、傷を負わせるくらいは出来るはずだ。
 だが、返って来たのは静かな哂いだけだった。
「妾を斬りたいか?」
 思わず、刀に伸ばしていた手が止まる。
「斬るも結構。斬れば益々、其方の内の蛇が鎌首を擡げようぞ」
 ああ、それも良い。言って女はまた哂う。
「いっそそのまま人の心など捨ててしまえ。妾が存分に可愛がってやろう程に」
「愚劣な!誰が貴様などの仲間になるものか!」
「仲間?妾が鬼と誰が言った?その内の鬼か?」
 頬を撫でていた指で、額を軽く突付かれる。
「妾が鬼と、判るは鬼だけぞ」
 そのまま自らの口元に持って行くと、躊躇いもなくその手首に歯を立てた。
 ぶつりと音がして、皮膚が切れる。
「ほれ」
 女は噛み切った手を、元就の目の前に差し出した。
「これが欲しいのであろう?」
 手首から溢れた紅い液体が、腕を伝って滴り、寝具と畳に染みを作っていく。
 噎せ返るような血の香り。
 どくり、と、身体の中で何かが脈打った。
「う……!」
「ほう、耐えるか」
 手の内で悶える元就を見て、女の声に初めて驚いたような響きが混じった。
「強い鬼ゆえ焦らずともこちらへ堕ちて来ると思っていたが……驚いた」
「痴れ事を……この毛利元就、貴様如きに易々と推し量れる人間ではないわ」
「言うたな、人の子が」
「それがどうした、鬼姫が」
 苦痛に歪みながらも、その表情からは精悍さが消えない。
 慣れてきたのか、口元には笑みさえ浮かんでいる。
「鬼も血も苦にならぬ。毛利の頭領たる者が、己の内のものも御せぬ訳がなかろう」
 流石に女の目付きが鋭くなる。
「判っておらぬな。其方など今少し気を抜けば鬼に喰われて消える身」
「抜かねば良いだけの事。我が欲しくば、我の動揺を誘って見せるが良い」
「……ほざいたな」
 女の口元に壮絶な笑みが浮かんだ。
「その生意気な口、利けぬようにしてやろうぞ」
 ぐい、と掴まれた顎を引かれて、

 唇が触れて、後 は 、



「何だ、他愛の無い」
 ゆらりと寝具から起き上がった元就を見て、女は口元だけで哂う。
 否、正確にはそれはもう元就ではないのかもしれないが。
「このような鬼と張り合ったのだから、どのようなものかと思ったのだが」
 案外呆気なかったな、と呟きながら、傍へ寄ってきた身体を受け止める。
「そう、全部喰ってやるなよ。妾の言葉に返事を返せる程度には残しておいてやれ。
 妾はあやつのあの顔がまた見たい」
 消えなば、心など如何様にも出来るゆえ。
 幼子をあやすように肩や背を叩きながら囁く。
 しばらくしてその眼に少しだけ、先刻までのような光が戻った。
 思い通りにならない唇が微かに動き、きさま、と小さく声を発する。
「我を何とする」
「さて、如何してやろうか」
 話しながら女の表情が、かつてない程愉しそうに綻んだ。
「其方の中の鬼は妾の意のままにすると言うてくれた。其方を生かすも殺すも妾次第よ」
「……」
「案ずるな、殺しはせぬ。妾は其方が気に入ったゆえ、存分に可愛がってやろうぞ」
「……鬼め」
「知らなんだ訳ではなかろう」
「鬼姫が」
「それがどうした、人の子が」



精神汚染と人外ヒロインと受け身元就。好物が揃っています
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