シリフ霊殿
Schild von Leiden

猫と飼い主
 窓の外で猫が煩い。
 発情期ならば自然の摂理と放っておくつもりだったけど、どうやらそうでもないらしい。
 明らかに喧嘩だ。しかも一対一どころじゃない、タコ殴りの。
 好い加減喧しさに耐え切れなくなって、窓を開けて思いきり水をぶっかけた。
 流石猫、反射神経も鋭い。
 逃げ損ねて頭から水を被ったのは、タコ殴りにされていた一匹だけだった。
「貴様……何のつもりだ!」
 猫の癖をして濡れ鼠になりながらこちらを睨み怒鳴りつけてくる。
「あまりにも喧しかったものだから黙らせようとしたつもりだけど」
 きっぱりと言い返せば猫は返事に詰まったのかそのまま黙って俯いた。
 しばしの沈黙。
 やがてくしゅん、という小さなくしゃみと共にそれは破られた。
「寒い?」
「……誰のせいだと思っている」
「……うち、入る?」
「断る。主でもない者に情けをかけられる程落ちぶれてはおらぬ」
「あっそう。
 じゃあ風邪ひいても拒絶したあんたのせいであってあたしのせいじゃないね」
「……」
 再びしばしの沈黙。
 今度は猫の「責任を取れ」という随分と偉そうな言葉によって破られた。



 他所の猫の縄張りに入った猫がそこの猫に終われて逃げてしている内に、
 段々家が遠くなって終いには帰れなくなってしまうという話があった。
 この猫もその口なのかと一瞬考えたが、どう見てもそんなミスをしそうにない。
 という事は野良か、それとも単なる家出猫か、
 それともテリトリーなんてものをそもそも知りえない程箱入りなんだろうか。
「猫、お腹減ってるなら何か食べる?」
「猫ではない。元就だ」
 とりあえず牛乳を取り出しながら聞くと、猫は無愛想にそう言った。
「へぇ、名前があるんだ」
「主につけてもらったのだ」
「ふーん。まぁどうでもいいや。ミルク飲む?」
「うむ」
 底の浅い皿に牛乳を注いで、寒がっていたのを思い出してレンジにかける。
 自分の前に置かれた粗食を口に運ぶその仕草はとても行儀が良い。
 主と呼ぶべき人間がいるらしいけれど、随分厳しく躾けられたんだろうと思った。
「そういえば、その主っていうのは何処に居るの?」
 飲み終わった頃合を見計らって話題を切り出す。
 猫は綺麗に飲み終わった皿をテーブルに置いて少し黙った。
「住所が分かれば送って行ってあげられるんだけど……分からない?」
「……住所は分かる」
「え、じゃあ」
「分かるが、我が帰った所で誰一人喜ぶまい」
 視線をまっすぐ空っぽの皿に注ぎながら、猫はそうぽつりと言った。
「我が帰ったら、主が困る。我はもう、主には必要の無い存在なのだからな」
 捨て猫、という言葉が脳裏をよぎった。
 それならこのぱっと見馬鹿ではなさそうな猫があんな喧嘩に巻き込まれたのも、
 飼い主を失くして自棄になってたからだと説明がつく。
「心遣いには感謝する。だが、その必要は無い」
 今度はあたしの方をしっかり見据えて言う。
 その目には何の動揺も無い。かえって不気味なくらいだ。

「……あんたは、それで平気なの?」
 だから、思わずこう言ってしまった。
「大好きなご主人様に嫌われて追い出されて、それで何も感じずにいられるの?」
 猫はしばらくきょとんとしてこちらを見ていたけれど、しばらくして何とも複雑な表情に顔を歪めた。
「……そのようなもの、我は望んではならぬ」
「あのねえ、望むも何も」
「少しの間だけでも主に必要とされて、それで我は満足せねばならぬのだ」
「……あっそぉ。で、あんたは満足出来てるの?」
「無論だ!」
 嘘を吐け。
 少なくともその奇妙に歪んだ表情は、とてもの所満足しているようには見えない。
 目は口ほどに物を言う、とは良くも言った物だ。
 あたしが黙っていると、猫の視線は再び下へ下へと下がっていった。
「これで良い、のだ、我は、もう主に望む事など、何も無い」
「……」
「ただ、目の上が」
「ん?」
 猫は顔を覆って俯いている。
 顔というより、目かもしれない。まるで泣くのをこらえているように。
「目の上と、喉と、胸が、いたい」
「……そぉ」
「我は、一体どうしたというのだ」
 猫があまりにも奇妙な表情のまま首を傾げているものだから、
 ああこの猫は今まで悲しいなんて事を知らずに生きてきたのだと思った。
 それを幸せと思うか不幸と思うかは、まぁ個人的な解釈の問題だろうけど。
 だからあたしは出来るだけそっと猫に言った。
「それはね、きっと病気だよ。一晩寝れば良くなるよ」
「……まこと、か?」
「うん。スープがあるけど、それ飲んでから寝る?」
「……いらぬ」
「そっか。じゃあ寝床用意してあげるから、今夜はここに泊まりな」
 猫は小さく頷いてあたしの案内した寝室に入っていった。
 毛布とバスケットで小さな寝床を作り終えると、
 自分は別の部屋に布団を敷く事にして早々に部屋を出る事にした。



 明日起きたらきっとあの小生意気な猫が目の前で胡坐などかいている事だろう。



綿の国星の台詞を言わせたかっただけ
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