シリフ霊殿
Schild von Leiden

いざうれ己ら、死出の旅の共をせよ
「ここで良い」
 山道の真中で殿がそう言ったので、驚いて歩を止めた。
 貸していた肩を外すと、足から力が抜け諸共にその場へ座り込む。
 深手を負った彼だけでなく、自分も随分と体力を消費していた事を初めて知った。
「最後の命令だ」
 兜を脱ぎ、具足を外した殿が俺を見る。
 俺は殿の傷口の布を巻き直しながらはい、と返事をした。
「我を殺せ」
「……え?」
 この殿に仕えて早数年、主の命令に尋ね返した事など一度も無かったのに。
 それだけ俺が自分の耳を疑ったという事か。
 殿は平素の無表情のまま、聞こえなんだか、と鼻で笑った。
「この傷では長くは持たぬ。追手も来ているであろう。身動きがとれなくなる前に、我を殺せ」
 驚きは無かった。
 命を物のように扱うこの人の考え方は、毛利軍の者なら誰でも知っている事だ。
 自分自身の命さえそのように考えていたとしても何の不思議も無い。
 だが。
「……出来ません」
 殿の命令に反論するのもこれが初めてだ。
 自分の声が震えているのをはっきりと自覚した。
 震えている理由までは候補が多すぎてもう分からない。
「我の命が聞けぬか」
 傷を負っていない方の腕で、殿が俺の胸倉を掴む。
 顔色こそ血の気が失せて白いけれど、その眼は氷のような光を失っていない。
 俺は恐怖のようなものに震えながら、せめて、と言葉を絞り出した。
「せめて、せめて何故数刻前にそれを仰って下さらなかったのです。
 数刻前ならばまだ清水殿や熊谷殿や、私なぞより余程その役目にふさわしい方々がご存命でしたのに」
 殿の頭の良さも誰もが知っている。
 常に他の誰より何歩も先を見通し、何倍も良い判断を下せるのがうちの殿だ。
 けれどどう考えてもこれだけは分からない。
 一介の足軽にすぎない俺に一国の主の介錯が務まる筈が無い。
 そんな内容の事を呟いていると、俺を睨んでいた殿の眼の光が少しだけ緩んだ。
「たわけが」
「……はい」
「死して尚首を守る事など出来ぬ。豊臣方に売れば相応の手柄となろう。
 我の首を取って、追手の雑兵に紛れ敵陣営へ持って行け」
 そこから先は、言われずとも何となく理解した。
 成程それなら顔の知られた重臣より一介の足軽の方が見つかりにくいだろう。
 ただ、それによって殿が何をしようとしているのかは遂に分からないままだった。



 不意に殿が俯いて数度咳き込んだ。
 赤いものが口元を伝って点々と地面に吸い込まれてゆく。
「期待していたより持ったな」
 ぽつりと殿が呟く。
 もう時間が無い。躊躇ってなどいられなくなった。
 そうだ、傷が大分酷い。見れば分かる。
 これが治るようなものじゃ無い事くらい、俺にも分かってた事じゃないか。
「……では、」
 刀を抜き、殿の肩を掴んでその喉元に突きつける。このままこれを少し奥に突けば終わりだ。
 それなのに最後の最後で中々手が動かない。今まで同じ方法で何人も殺してきた筈なのに。
 殿は今まで通りの表情でまっすぐ俺を見つめている。 
 俺が刀を動かせないのを見るとゆっくりと口を開いた。
「案ずるな、葬れとは言わぬ。このまま山に打ち捨てておけばそれで良い」

 表情には出ないが、焦れているのかもしれない。
「……最後に一つだけ、宜しいでしょうか」
「申せ」
「何故、私を選ばれたのですか」
 ここに来るまでに犠牲になったのは、何も重臣だけじゃない。
 俺より手柄を立てた筈の同輩も弓の上手い後輩も多く散っていった。
 追手の目を逸らす為の囮になった者も一人や二人では済まないだろう。
 何故俺だけがこうして残り、今このような事をしているのか。
「愚問だな」
 答えを聞く為に一度瞬きをする。
 一刹那振りに見た殿の顔は驚くほど穏やかだった。
「他の者に討たれるくらいなら、貴様に呉れてやった方がましだ」

 嗚呼、死の境地に立つとこの人でもこんな顔をするのか、と思った。





 首は落とせなかった。
 散々悩んだけれど、やっぱりこの人の首はこの身体にあるのが一番ふさわしい。
 喉笛は切り裂いてしまったけれど、そのくらいじゃそれは変わらないだろう。
 ただ、随分と穏やかな表情をしているのがこの人にしては珍しいだけだ。
 何かが俺の顎を伝って点々と地へ落ちる。
 おかしいな、滴るほど返り血を浴びた覚えは無いんだが。
「……殿」
 何故か震えて思うように言葉を発してくれない喉を奮い立たせて喋る。
「私は殿に忠誠を誓った身、他の主君に仕えるなど愚かしい事でございます。
 豊臣に降るより、殿の死出の旅の伴をいたしたく存じます」
 殿は地面に寝転がったまま答えない。
 あれほどの戦の後だから、さぞかし疲れていらっしゃるんだろう。
「お答えの無きは、お許しをいただけたものと考えてよろしいか」
 尚も返事が無いので、引き起こして再び肩に担ぐ。
 先刻より少し重かった。俺も大分疲れているのかもしれない。
 追手に追いつかれては堪らない。この人の首は意地でも守らなければ。
 そう、崖の下ならば流石に向こうも追って来る事は出来まい。
 崖の淵に立つと、丁度日が沈む所だった。
 殿が眼を開けていらっしゃるなら、さぞ喜んでおられるだろう。
「では参りましょうか、元就様」
 お許しいただけて嬉しゅうございました。

 地面を蹴る直前に発した言葉は、自分自身にも聞こえなかった。



これ敵に向けた台詞じゃないかとか言ったら負けですよ
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