シリフ霊殿
Schild von Leiden

やさしいまほう
 私の父と母はとても仲の良い夫婦でした。
 おしどり夫婦、というのでしょうか、昔から何をするにも二人一緒で、
 休みの日などは私を連れて、揃って近所のテニスコートに出かける事もしょっちゅうでした。
 近所でも評判になる程の仲の良さで、私も鼻が高かったものです。

 ですが、そんな二人でも時折喧嘩をする事はあるもので、
 普段仲が良かった分、対立した時の剣幕も相当なものでした。
 母は生来勝気な人でしたし、父も普段は温厚で人当たりの良い性格でしたが、
 これでも学生時代はテニス部レギュラーで大会で盛んに腕を競い合ったといいますから、
 双方負けず嫌いな性格は折り紙付きだったといえましょう。
 たとえ切欠は些細な事であったとしても、火が点いてしまえばもう止まりません。
 幸い暴力沙汰にこそなった事はありませんが、口論は隣近所に響く程の大声であった事は確かです。
 そして結果は決まって父が劣勢、言い返せなくなった挙句に怒って家を出て行ってしまうのが普通でした。
 『もう君の所になんて帰って来ない』
 それは勿論怒りの弾みで出た言葉だったのでしょうが、
 平素から仲の良い二人を見慣れていた幼い私にはその言葉がとても辛くて、
 乱暴にドアを閉める父の背中を泣きながら見送ったものでした。
 一方の母はそんな言葉を受けても何の動揺も無いようで、
 泣いている私を尻目に平然と部屋の片付けなどしていたりするのです。
『ぱぱ、ほんとうにもうかえってこないの?』
 私が泣きながらそう尋ねると、母は片付けの手を止めて、大丈夫よ、と私の頭を撫でながら言いました。
『大丈夫、パパは絶対に帰ってくるから』
 そう言ってとても幸せそうに笑うのです。
『パパにはね、魔法がかかっているの』
 一度母は悪戯っぽく笑って私にそう言った事があります。
 どんな魔法?と私は泣くのを止めて聞きました。
『あのね』
 そうして母は笑いながら私に昔話をしてくれました。
 パパには内緒よ、と釘をさす事も忘れずに。
『パパがママから、絶対に逃げられない魔法』
 それは私が生まれるよりもずっと前、父と母が初めて喧嘩をした時の話でした。





 父・不二周助と母・#奈々――当時はまだ旧姓でしたが――が出会ったのは、
 中学一年の春、テニス部の仮入部の日であったそうです。
 実際に付き合う事になったのはそれから一年くらい後かしら、と母は笑いました。
 自分の意見をきちんと述べる彼女と、他人の意見をきちんと汲み取る彼。
 しばらくは衝突する事も無く、穏やかな交際が続いていたようでした。

 異変が起こったのは数年後、高校生になってからの事でした。
 高校生ともなれば、大学併設の私立校とはいえ受験を意識し始めます。
 そして学校で志望校調査が行われた日、初めて二人の意見が対立したのでした。
 内部進学を選んだ父と、外部受験を第一志望に選んだ母。
 父は母の為に、テニスの外国留学を蹴ろうとしていたのでした。
 彼女を傍に置いておきたい彼と、心さえ繋がっていればと考える彼女。
 といっても個人の志望にはあまり他人が文句を言えるものではありません。
 父が腹を立てたのはむしろ母の考え方の方だったのでしょう。
 要するに結構子供っぽいのよあの人、と母は溜息を吐きました。
 だって好きな物全部傍に置いておきたいだなんて、虫が良すぎると思わない?
 私は私のものであり続けさえするなら、別にどこにあろうと構わないと思うのよ。
 だからそう言っただけ、と母は言いますが、
 母の性格からしておそらく父の神経を逆撫でするような事も言ったのでしょう。
 彼らの喧嘩は大抵、母の余計な一言に父がむきになる所から始まるのでした。



 そうして、私が平素驚かされていたようなあの大喧嘩が始まったのです。
 結果は当然父の負け。
 口喧嘩では必ず劣勢になる所から最後には何処かへ行ってしまう所まで、
 どうやら当時から全く変わっていなかったようです。
 突然何処かへ行ってしまった父に流石の母もしばらく呆然としてしまったらしく、
 友達に声をかけられるまでどれくらい呆けてたのかしら、と笑っていました。
 この時ばかりは流石の母も破局を覚悟したのだそうです。
 後を追えば良いのか謝れば良いのか、何分初めての喧嘩なので勝手も分からず、
 どれくらいか忘れてしまうほど長く、母はそこに立っていました。
 ふと、廊下の向こうに見覚えのある姿が見えたのです。
 父の姿でした。
 父は酷くばつが悪そうな表情で(それはそうでしょう、喧嘩の直後なのですから)
 ゆっくりと母の目の前まで歩いて来ると、俯き加減のまま口を開きました。
『あ、あの……さ』
『何?』
『君……僕に魔法でもかけたかい?』
『はぁ?』
 これ以上ないほど間抜けな様子であったそうです。
 とはいえ流石に母、この頃から父の扱いようは心得ていたようで、
 父の行動の意味を即座に察し、にっこりと笑ってこう言い放ったのだそうです。
『―――今頃気付いたの?』





 そんな話をつらつらとしていると、玄関から父がひょっこり顔を覗かせるのです。
 恐らく初めて喧嘩をした時と同じような、ばつの悪そうな顔をして。
 母はそんな父を叱る事もせず、にっこり笑って一言
『どう、魔法は解けそうかしら?』
 その一言で母がもう怒っていない事が知れるのでしょう、父も苦笑いをして
『残念だけど、まだしばらく解けそうにないみたいだ』
 何も知らない私はただ二人が仲直りしたらしいのが嬉しくて、
 意味もなく二人の周りを跳ね回ってみたりするのでした。



中学生時代に考えたネタだった気がします
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