シリフ霊殿
Schild von Leiden

我が家に大型犬が居たならば
 ぱたん、ぱたん、ぱたん。
 嗚呼、尻尾を振る音が聞こえる。
 これが世に言う幻聴というやつか。試験勉強で朦朧とした頭に響く幻聴か。

 (だって目の前に犬が見える、なんて)



 ぱたん、ぱたん、ぱたん。
 やけにリアルだがこれも幻覚か。
 尻尾を振りながら健気にも主人に構ってもらえるのを待つ大型犬が見える。
 というかうちは何時の間に大型犬なぞ飼い始めたんだろう。
 これは現実か、それとも飽和状態の脳細胞が起こした一斉決起という名の嫌がらせか。

 すごくきらきらした眼で、犬が、こっちを見ている。



 ぱたん、ぱたん、ぱたん。
「……ちょたー」
「!」
 ぱったん。
「はい何でしょう#奈々さんっ!」
「……」
 いぬ、が。





「……何でここにいんの」
 何故こいつが此処に居るのだろう。
 高等部への内部進学を控えて進学テストの為に猛勉強中な私の、部屋に。
 きっと母さんが入れたんだろう、こいつにだけはとことん甘いから。
「あっすいません、……迷惑でしたか?」
 あ、耳垂れた。微妙に罪悪感。
「いや別に。ただ居ても構ってやれないしつまんないよって事で」
「はいっ、ありがとうございます!」
「……」
 復活が早い。
 やっぱこいつ私の事大好きなんだなァ、としみじみ思う。
 ここまで顕著であれば誰も私を自惚れ屋とは言うまい。
 むしろこれで私を嫌いならこいのぼりが般若になるような猫の被り様だ。



「お勉強、続けてもらって構いませんよ。俺はここにずっといますから」
 あぁ、可愛い。大好きだこの大型犬。
 可愛すぎて時々絞め殺したいほどにうざったくなるけれども。
「気が向いたら話しかけて下さい。それまで待ってます」
「……うん」
 それにしてもその頭の上の犬耳にはいい加減消えて頂きたいんだけれども、
 どうもそう簡単には消えて貰えないらしいので諦める事にした。
 ちなみにその際にはその規則正しく揺れる尻尾にもご退場願いたい。
「……ちょたー」
「はい?」
「……いやいい、何でもない。ごめん」
 耳と尻尾の幻覚が見えるから消してくれなんて、当の本人にそんな事言っても通じるまい。
 しかし。
「……」
 ぱたん、ぱたん、ぱたん。
 これは新手の嫌がらせなんだろうか。
 止めろと言った所で止められる訳がないしそう不快でもないしで容認するつもりだったのだけれど、
「……ちょたー」
「はい?」
「やばい、気になる」
「? 何がですか?」
 (そのお前の尻の辺りで揺れてる尻尾が)
 猛烈に気になる。
 幻聴が見える、幻覚が聞こえる、そこまでに限界か私のニューロンとシナプス。
 あ、しまった逆に言った。本気でかなりやばいらしい。



「#奈々さん?大丈夫ですか?」
「……やばい」
 心配してくれるのは有難いがそう顔を近づけてくれるな。
 こっちはお前の頭に犬耳が見えてる状態なんだぞ。
「……ちょたぁ」
「はい?」
 しかしやはり幻覚が見えるので部屋から出て行けなどとどうして言えよう。
「ちょたは神経切れそうになるほど勉強に没頭した事ってある?」
 婉曲的にいってみる。婉曲とは言い難いかもしれないがこれが精一杯だ。
 犬は一瞬尻尾を振るのを止めて考えにふけった。
「俺は……そうですね、一度だけ赤点を取ってしまって徹夜で追試勉強をやった事がありますが」
 畜生優等生めが。
「その時は、机のすぐ傍に#奈々さんがいてくれるような気になりました」



 ……ああ、そういえば今日母さん出掛けてるんだったな。



「例え幻でも好きな人が傍にいると、気持ちが落ち着くものなんですね」
「……ふーん」
 幻覚の癖に随分とものを言う。
 人間の深層心理というのは得てして常人の理性で処理できる範囲を超えるものだ。
「じゃ……ちょたに電話してみようかな」
「待ってます」
 やっぱり随分とやばいのかもしれないな、と思いながら携帯を手に取った。



ふと思ったんだけどこれ生霊っていうんだろうか
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