神は全能なり、と誰かが言ったらしい。勿論異教の話であるし、その人間が何を以てそのような言に至ったかなど知る由もないが、若し真実万能なるものが存在するならば、何卒神などという名で呼ばれないで欲しかった。如何に己が末席に過ぎぬ付喪神とはいえ、そんなものと神の席を同じくしてしまっては、あたかも己がひとの苦悩を救う仏の様ではないか。いくら名刀と誉めそやされようが、つまるところ俺はただの物ぞ。神がひとを助くるが如く、俺をどうぞしてくれる者は居ないものか。夢うつつながら三日月宗近は、逃げ場のない苦悩に身を捩り悶えている。
元来神とは、否、付喪神とは、ただの概念の塊である。実体のみにして心なきもの。魂のみにして器なきもの。ただ己が在るという認識のみがそこに有って、それ以外の干渉は無きに近しい。
三日月宗近自身、こうして人の器を授かるまでの存在意識は酷く希薄であった。持ち得る感情も多くはなかった。感知するものには大抵無関心で、時折僅かな好奇心と、恩と、怨みと、無念とに帰結して、そして霧散して消える。極稀に、ひとの感情に呼応して生まれる情愛があるというが、話に聞くのみで実際経験したことはない。そこまで強くひとに心を寄せたことはないし、そこまで三日月宗近に心を移す人間に会ったこともない。少なくとも記憶にある限りでは。
永い時を生きて来たと嘯くが、実際は殆どの時間、周囲を感知してはいない。ただ己の周囲でひとが騒げば宴のありやと一瞥し、城が騒げば何事あるかと注視する。或いは主が代を移る度に、どの子が継いだかを確認する。記憶に留めるかは分からない。全ての刻をその身に蓄えている訳ではない。人を斬ったことがあるかどうかも覚えていないが、それはひとにとって記録に値しない瑣末なものだったか、実際に柄を握られたこともないかのどちらかである。人ではないが、ひとなくしては在り得ぬもの。ひとの為に在るが、人とは決して相容れぬもの。三日月宗近にとって、己が在るとはそういうことだった。
嗚呼、それが。眉根を寄せ唇を噛む。それが今は己が身たる太刀を佩いて人の姿をしている。あたたかな血と肉に包まれた己のなんと扱いにくいことか。
付喪神が人の形をとることは苦痛ではない。昔物語にも描かれる、至極普通の現象だ。化けたことがなくとも知っている。しかしこれは己の通力で成したものではなく、審神者が、ひとが態々人の身体を誂えて寄越したものだ。自分の意思で変じるよりも更に人に近く、更によく情を働かす。三日月宗近にはそれが苦痛でならない。
人の情を備えた人の器に、付喪神の魂だけが吹き込まれている。それは喩えるなら冬空に立ち尽くしていたところをいきなり風呂へ叩き込まれたようなもので、周りは口々に温いだの楽しいだの言っているが、自分にしてみれば冷えた肌を熱い湯に刺されてどうにも敵わぬのである。ただ己が未熟なのか、時が経てば順応してゆくものなのか。これを心地よく思う日が来たとして、再び寒風吹きすさぶ中に戻ることを躊躇したくはなるまいか。
我ながら往生際の悪いことと思いつつも、それでも三日月宗近は未だ、素直に微温湯に浸かれないままでいる。
ゆるり、目を開いた。視界には幾度目かに見る天井。嗚呼、と息を吐く。まなこでものをみている。
手入れ前後の意識はいつも朧気だ。付喪神たる大元を損なっているのだから無理もない。またそういう時は往々にして人の身体の方も傷付いているので、そちらも回復させるべくただ眠っている。深い眠りを要するほど重篤な事態になることは珍しいが、人の身が目を覚ますまでの茫洋とした睡眠の感覚は、未だ器を得ぬ頃のそれに似ていて嫌いではなかった。
まなこをぐるりめぐらせ、手入れ部屋の障子から差し込む陽光を見る。午になろうかなるまいかという刻限である。もう少しすれば回復時間の目途をつけている審神者が、昼餉を持ってやって来る。そしてひとの生活知識が馴染んでいない己に、あれやこれやと世話を焼いてくれるのだ。寝乱れた髪をくしけずり、湯に浸した手拭いで身を清め、寝間着の代わりに狩衣を纏わせ。病み上がりだからと粥の匙を口に突っ込んでくるかもしれない。如何ともしがたい、と思う。
世話をされるのは好きだ。ひとにはいつだって大切にされてきた。愛されてきた、と言っても傲慢ではなかろう。人として生きるのに慣れていないので、作法を知らず他の刀剣達にやきもきされるのもまた必定と思っている。
だがこれが審神者にされるとなるとどうも落ち着かない。刀なれば主に手入れをして貰うのは悦びといえるが、今の己は人である。世話の内容が全くもって違う。しかも既にやり方を学んだ同属に教わるではなく、この身体を創り出した者に自ら弄られている。この感慨を何と呼ぶべきか未だ判じかねるが、如何ともしがたい、と、三日月宗近は常々感じていた。冷えたくろがねの肌が、疼く。
薄い気配と共に入室を告げる声が響き、ややあってからりと障子が開いた。審神者である。こちらの様子を廊下から確認すると、そっと内へ入って部屋を閉め切る。体調はどうかと聞かれたので半身を起こしながら大事ないと答えた。そもそも今回は手合せ中に不注意で相手の突きを避け損ねたものであるから、本体に些かも傷はない。盛大に目を回したという程度のものだ。器が回復するまで眠っていただけ。だからこそ長々と思索にふけって要らぬ気を揉んだのやもしれぬ。ひっそりと回顧する。
付喪神の実情など与り知らない審神者は心なしか安堵した表情を見せ、粥の乗った盆を脇に置いてから、紺青の髪をそっと手櫛で撫でた。やはり世話を焼いてくれるのか。またちくりと肌を刺される感覚がして、三日月宗近は甘えるように目を閉じた。主の指が少し癖のついた猫毛を丹念に撫でつけ、米神から頬を爪先でなぞり、顎を軽く掬ってから離れていく。嗚呼、如何ともしがたい。
手合せでこの様とは俺も遂に耄碌したか。何かを振り払うように戯言を口にする。耄碌も何も、余所事に気を取られて防御を怠ったのをはっきりと自覚している。相手が演練で手を抜く性質かどうかきちんと見極めるべきであった。それよりまずは、己がそのような場で戦闘以外のことへ気をやってはならないのだが。
大したことを考えていた訳ではない。先日の出陣で負った傷と、回復するまで主にどう世話を焼かれたかを思い出し、そういえば真剣を用いないこのような場でも傷は負うのかとふと思ったのだ。また同様に主は己を介抱しようとするのかと。結果として疑問は解消し、答えは是であった。好奇心を満たすにはやや重すぎる代償だったといえよう。
審神者は三日月宗近の呟きにはただ苦笑を返したのみで、蓮華に粥を乗せ、食って今しばらく休めと優しく語りかけてきている。刀でなく人が負った傷は、手入れでは治しきれぬからと。やはりこの肉体は通力で成すそれより些か人に近いようだ。面倒だな、と思いながら大人しく口を開ける。
塩味が咥内に満ちた。美味い。人のように飯を食べることにも未だ慣れず、回復の為と半ば義務感で食事をしているが、味覚というのは中々良いものだ。時折戦の褒賞に貰う菓子類にも最近は大分馴染んできた。
一人用の土鍋に盛られた粥を綺麗に食べきると、主は再度安堵した顔を見せた。それから鍋と盆を部屋の隅に下げ、予想していた通りに濡れ手拭いで身を清め、新しい寝間着を羽織らせてきた。主君に反抗する訳にもいかないので成すがままにされているが、じわじわと肌が煮える感覚がしてやはり落ち着かない。人の身体に慣れないせいか、まるで己が己でないようだ。せめてと視線を逸らし、主の姿を視界に映さぬよう努める。これが主の手によるものであると、出来る限り意識したくなかった。
ほどなく一通りの身支度を整え、今日は念のため安静にしているように告げると、審神者は出し抜けに何か欲しいものはあるかと問うてきた。意図が読めずにぱちりと目を瞬く。しかし数瞬の後に主が繰り返した言葉は先と違わぬものだった。鍛練も手合せもせずに一日閉じこもっているのは退屈であろう、何ぞ無聊を慰めるものが欲しくはないか、と。
じわりとまた肌を揺らすものがある。むず痒い。俺が手持無沙汰を嘆くと思うのか。無為無聊というのなら、刀のまま使われることもなく死蔵され続けた幾百年を何と表せばよい。たとえ付喪神であろうが今は一介の人であると、手慰み心を寄せるものの一つもなければ耐えられぬと思っているのか。この俺が。この主は。湧き上がってきたものは、しかし怒りではなかった。やわくやわく微温湯が肌を撫でる。耐えきれぬ煩苦をもたらす筈のそれは、今や完全に三日月宗近を包み込んでしまっていた。恐怖する。いつの間に。一体いつの間に己は人のようになってしまったのか。一体いつの間に、ひとにこれほど移すべき情を手に入れてしまったのか。訪れてしまった順応は酷くあっけなく、酷く甘やかだった。同時に耐えがたい不安で身体が戦慄く。これからは再び寒空へ放り出される恐怖に怯えなければならない。
返答のないのを不審に思ったのか、主が再び身を寄せてくる。発熱はないかと額に触れ、再び米神から頬をなぞって、顎を掬って眼を見つめて離れていく。あつい。湯が沸きたっている。
そうだなあ、俺は。困らせまいとなるべく平素通りの声を出したが、その先は出て来なかった。何と答えるべきか思い当たらない。主は答えを待ってこちらをじっと覗き込んでいる。審神者の仕事も暇ではなかろう、早く出て行かねばならぬ筈なのに。おれは。見られたくなくて少しずつ俯いた。俺は今別に暇もしていないから構わぬのだ。そう言ったら出て行ってしまうだろうか。出て行かねばならない。審神者の仕事も暇ではない。判っている。わかっている。それなのに己はもうこの湯の中から顔を出すのが怖いのだ。せめて今一度触れてくれたなら、それをよすがに一日安穏と微温湯に浸かっていられるだろうか。
ひとに恋する人外、という雰囲気を出したかった。