シリフ霊殿
Schild von Leiden

いい年して、このやろう
 情けない。独り言ちながら平熱やや上を示した体温計を片付け、ジェイド・カーティスはベッドに倒れ込んだ。
 確かにここしばらくの自分は少し無理をしていたと思う。首都を離れていた間に溜まった仕事を片付け、徹夜で分厚い報告書を書き、合間に一般兵達の訓練を見てやりつつも、皇帝陛下が祝賀会という名目で開いた酒盛りに付き合わされた。どうにか丸一日の休みをもぎ取り、自宅で泥のような眠りから覚めた途端にこの熱発である。要するに肉体はまだ休み足りないと駄々をこねている訳だ。一晩休んでも尚疲れが取れない程に甘やかした覚えはないが、しかし。例え自分から日常的に笑い話にしているとはいえ、面と向かって事実を突きつけられると妙な反発が生じるものだ。もう年寄りですから、といういつもの軽口を、ジェイドはそっと胸にしまい込んだ。
 若かろうが若くなかろうが風邪は風邪。面倒な状態であることに変わりはない。家に居たら居たで、やりたいことは沢山あったのだ。例えばプラネットストーム代替案の模索、フォミクリー研究再開に向けての根回し、新しく補充された人員の編成、それから。何を考えようにも、温い血流が脳を溶かしていく。今日はこのまま寝ていればいいと、パスタソースのような思考が告げる。どうせこの頭では使い物になるまい。囁きに従って再度意識を手放そうとした時、やや荒々しく階段を上がってくる気配を感じた。
 足音は部屋の前で止まり、管理用のマスターキーで扉をこじ開けると、ずかずかとベッドサイドまで歩み寄って来て言った。
「あら、あんたが寝込むなんて珍しい」
「……何しに来たんですか」
 布団の下から薄目を開けて睨むと、下宿の若き女主は悪びれず笑った。
「随分静かだったからね、くたばってんじゃないかと」
「休日に休んで何が悪いんです」
「いつものあんたは休みだろうが何だろうが、こっちが朝食の仕込みしてる頃には起きてがさごそやってるだろ。安普請にゃよく響くんだよ」
「…………」
 確かに自宅にいてもただ惰眠を貪るようなことはないが、寝ているだけで死んだと思われたくはない。あからさまに渋面を作ったのに気付いたのか、#ナナは口先だけで謝って布団を軽く叩く。
「それはそうと調子はどうなんだい。医者を呼ぼうか」
 叩き方がまるで子を寝かしつける母のようで腹が立った。そんなだから私より年下の癖に下宿のおばちゃん呼ばわりされるんですよ、貴方。嫌味を辛うじて押し留めると、あとはむずかる子供のような言い訳しか出て来ない。まったく風邪というものは。
「医師免許は持ってますから問題ありません」
「あんたほど不養生な医者も珍しいだろうね。注射は打てるかい」
「寝ていれば治りますよ」
「じゃあ一晩経って下がらなきゃ医者に引きずってこうねえ」
 軽くいなされる。布団を撫でていた手が頭に移動した。いよいよ子供扱いだが、幼少の折でさえそうそうなかった頭を撫でられるという経験は中々に貴重である気がして抵抗はやめておいた。首を振ると頭痛がしたからというのも事実だが。
 ジェイドの瞼が再び落ちたところで#ナナは手を離した。踵を返す音がする。世話好きな彼女のことだから粥でも作って来るつもりだろうと、眠りに沈みながら思った。



 昼過ぎに身体を起こした時には、治ったと主張できる程度に不調は和らいでいた。独りでに目が覚めたのは回復を身体が感じ取ったからか、或いは単に軍部での仮眠が習慣づいただけのものかもしれない。
 壁の時計で睡眠時間を確認していると、今度も中々に無遠慮な足取りで来客があった。予想通り、手に粥の乗った盆を持っている。
「おや、起きてたのかい。少し顔色が良くなったね」
 そう言いながら盆をサイドテーブルに置き、何の躊躇もなく額に手を当てて来る。やめて下さいと払い除けた時には既に検温を終えられていた。
「もう心配はなさそうだけど、粥と薬持って来たからとりあえずお食べな」
 固形物が食べられないような病状ではなかったし、それも半ば平癒している。そもそも毎月家賃を払っている身の上とはいえ、家主に逐一様子を見に来られる義理などない筈である。
 ない筈なのだが、食事もせずに眠りこけていた胃は病み上がりに己を満たす何かを欲している。小鍋の蓋を取ればほんのり上がる湯気の向こうに純白の粥とほぐした焼きサーモンが見えて更に食欲を煽った。好物を把握されている。
 ここで文句をつけて口論になることに何の益もないと自らに言い聞かせ、黙々と粥を口に運ぶ。傍らでにこにこと見ている人間がいるので味わう余裕はないが、少し塩味が濃い気がした。
 ジェイドが素直に看病されているのを確認して、#ナナが小さく息を吐く。
「その様子だと、休みは一日で済みそうだね」
「元々その予定でしたから」
「おや、そうだったのかい? 陛下はもう数日休ませておくようおっしゃってたけど」
「は、」
 からん、と匙が鍋の中に落ちる。思わず#ナナを見返した時の表情はどんなものだったか。先方は恐らくジェイドの動揺など知る由もないのであろう、軽く首を傾げている。
「陛下が、いらしたんですか」
「いらしたのは勅使の方だよ。あんたが寝て少しした頃に、緊急の案件があるとか言って軍人さんが来てね。熱出して寝てるって言ったらそこで帰って、今度は勅使だっていう金髪で眼鏡かけた方が」
 断片的な情報からでも、優秀な脳は嫌な予感を確信に変えてくれる。陛下だ。#ナナがジェイドの病状を話し休ませるようにとの詔を受けたのは、勅使などではなく誰あろう皇帝陛下その人だ。
 不調を知られた。高々数日の激務で疲労をきたして寝込む無様な姿を知られた。否、それよりも何よりも、下宿先の主に甲斐甲斐しく世話を焼かれているのを、知られた。#ナナ当人が説明した以上主君は確実にそう解釈するであろうし、後でジェイドがどう説明した所で、彼のいいからかいの種になるのは目に見えている。
 頭痛がぶり返してきた気がして、ジェイドは眉間を押さえた。明日、恐らく普段通りに執務室を訪れるであろう彼にどう向き合ったものか。いっそ言われた通りに数日引きこもっていたい。叶うなら数日といわず半永久的に、己が今日ここで得た様々なものを全て誰にも見せずに仕舞っておきたい。
 #ナナは相変わらずベッドの横からジェイドを眺めている。先刻からの煩悶を病態と見ているのであろう、その表情は些か不安そうだ。今ここでジェイドが仕事に行きたくないと我儘を言えばどうなるだろうか。存分に休めと笑いかけてくれるか、もういい大人なんだからと説教をしてくるか、どちらにせよあの腹に据えかねる幼馴染よりは余程耳に快いものが返ってくるに違いない。彼にしては長い逡巡の後、ジェイドはそれを口にした。

「すみません、あの」
「何だい?」
「どうやらこの風邪は長引きそうなので、明日もまたお願いしてよろしいですか」

 #ナナは黙って、ジェイドの頭をまた一つ撫でた。



多分三徹くらいしてる。
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