国文学の講義、気が付くと私の隣の席にはいつも彼が居ました。
といっても別段特別な理由がある訳でもない、第一回目の講義に何とはなしに座ったら、
次からも何となく同じ席についてしまう、日本人とは大体そんなものです。
彼は終始下を向いて何やら書き物をしていました。教授の顔を見ようともしません。
教授が黒板の方を向いたら彼も前を向き、板書の中身をノオトにすっかり写して、
そしてそれが終わればまた下を向いて延々とペンをノオトに走らせているのでした。
私はお世辞にも優秀な学生とは言い難く、講義でさえ欠伸混じりに聴くような態度でしたから、
一心不乱に書き物をする彼に気付かれないよう、そっと彼のノオトを覗いたりもしていました。
驚いた事にノオトには教授の講義の中身がすっかり綺麗にまとめて綴られ、
しかもその脇には教授の話とは違う彼なりの解釈さえ、走り書きで付け足してありました。
ああこれが世に言う天才や秀才というものかとしみじみ思われた記憶があります。
というのも私は昔から何でも人並みで、人の波に埋没して過ごしているようなものでしたので、
私が少し上達すれば世間も同じだけ上達しているという、そんな平均的な能力でしたので、
こうした頭の良いのを見つけると、それだけ世の中に阿呆が増えたような気がして嫌になるのでした。
しかも彼はまた容貌も整っており、身なりもきちんとしてどこぞの金持ちのような風情でしたから、
こんなに出来の良い奴が居るなら世の中には私の思っていたより阿呆が多いのに違いない、
西洋に追いつくと言ったってそんなに阿呆が多いのではさてどうなることか。
そんな世の中を知った振りをして自由人を気取ってもおりました。
「だから私は貴方の事はよく知っているんですよ」
けろりとしてそう言われても、さてどう反応を返せば良いものか。
「……とりあえず、お前が私を気に入っていないらしい事はよく分かったが」
実際十人並みよりはやや恵まれた容姿をしている青年は、未だ平民には珍しい西洋製の寝台の上で、
これからこの闖入者をどうしたものかとしばし頭を悩ませた。
「いえ、別に嫌ってはいないですよ。少々劣等感を刺激されましたが慣れたものです」
「なら何の為に来たんだ」
「ですから私は貴方の事を知っていると」
「それだけの理由で、わざわざ私の部屋まで牛乳売りの格好をして飛び込んで来る訳が分からない」
溜息混じりにそう告げられた本田はまず軽く首を傾げて、それからだって、と口を開いた。
「最近講義にいらしてないじゃないですか」
「……は?」
「講義中に貴方のノオトを覗くのが楽しみだったのに、お陰で眠気が七割増ですよ」
「お前は大学に何をしに行ってるんだ……」
「少なくとも貴方ほど真面目な動機じゃないですねえ」
勧められもしないのに寝台脇の椅子に腰掛け、傍らの小卓に牛乳を一瓶置く。
寝台に居ることからして恐らく病人なのだろうが、牛乳は飲めるだろうか。
精がつきますからね、と見舞いらしい言葉を投げかけてから話を続けた。
「それで、大学にはいついらっしゃるんです?」
「分からないな。元々余り通う気も無いし、身体だっていつまた悪化するかも分からない」
「じゃあまた今度遊びに来てもいいですか」
「何がしたいんだお前は」
「ノオトが見たいです」
「……勝手にしてくれ」
溜息を吐きながら青年は手元の鈴を鳴らして使用人を呼ぶ。
現れた執事らしき燕尾服の老人に牛乳の瓶を手渡してから、目線で本田を門まで送る様に指示を出した。
「あっちょっと、牛乳ちゃんと飲んで下さいよ!精がつくんですから!」
「冷たいまま飲んだら腹を壊すだろうが」
「……お腹弱いんですね」
「うるさい」
「#朔夜坊ちゃんにご学友がいらっしゃるとは」
本田の一歩前を歩く執事がそう漏らした。
「あんな反応でも学友に入るんでしょうか」
「それはもう」
余程嬉しいのか、斜め後ろからも分かるほど微笑んでいる。
「坊ちゃんは幼い頃から病弱で、余り外に出て他人と触れ合う事をなさらない方ですので。
最近も酷く体調を崩されて、先日ようやく屋敷の外へ出していただけるようになったばかりなのですよ」
坊ちゃんを、よろしくお願いいたします。
帰り際、門の前で、執事はそう言って頭を下げた。
創作から少しいじって。大正パロ好きです