シリフ霊殿
Schild von Leiden

右へ左へ地へ月へ
 ああ、どうしよう!? 痛く突き刺さるこの視線
 私の座席順 逆さまの座席順
 ……いや、歌ったってどうにもならないのは分かってるさ分かってる。
 しかし人間現実逃避をせずにはいられない時だってあるんだ。
 更に言えば逃げるのは別に現実からじゃなくたって構わない。
 逃げたい物なら何だって。


 例えば隣の席からものすごい勢いで注がれるかすがさんの視線とか、さ。





 猿楽師が来てますよどうですか見ませんか、なんて進言するんじゃなかった。
 謙信様ごめんなさい、俺はただ休みが欲しかったんですそれだけなんです。
 だから謙信様とかすが殿が仲良く猿楽でも見てる隙に、
 鬼の居ぬ間にならぬ軍神の居ぬ間にをやろうと……早い話が羽を伸ばそうと。
 決して俺も猿楽見たいですとかそういう事を言ったんじゃあなかったんです。
 まして謙信様の隣に座ろうだなんて思ってなかったんです。
 ましてまして謙信様とかすが殿の間に座ろうだなんて思ってなかったんです。
 だからその凄まじいまでの嫉妬の視線は止めて下さいお願いしますかすが殿。
「いざよい、おちゃがはいりましたよ。おまえもどうですか」
 右隣の謙信様がそっと茶卓に乗った湯呑を回してきてくれる。
 そしてそれを気付かれないようにそっと左隣のかすが殿へ回す俺。
 どうして俺が十六夜なんて名前で呼ばれてるのかとかそういうのはどうでも良い。
 俺の名前は#ヘヴンフィールドだ。
 まぁ謙信様が人を名前で呼ばないのは今更だから気にもしないが。
 かすがさん違うよそれは俺が回したんじゃないよ謙信様が回せって言ったんだよ。
 俺はあれだ、貧乏育ちだから玉露のお茶なんて口に合わないから。
 お茶は三十番煎じくらいしてお湯の味と香りを引き立たせたやつが好物だから。
 一番煎じのお茶なんて味が濃くて滅多に飲まないんだ、だからかすがさんどうぞ。
「いざよい、おちゃうけもありますよ」
 はい、ありがとうございます。
 謙信様が猿楽へ視線を向けた隙に右から左へ。
 いやいやかすがさん、違うよそれは(以下同文)。
 俺はあれだ、甘いもの苦手だから。
 白湯の親戚のような出がらしを飲みつつ沢庵かじってるのが好きだから。
 最中みたいな口の中の水分を吸い取られる菓子は親の敵のように苦手だから。
 ところで謙信様、何で俺の事十六夜って呼ぶんでしょう。
 前述の通り俺の名前は#ヘヴンフィールドです。
 別にパッド入れてる訳でもナイフ投げる訳でも時間止められる訳でも無いです。
「ふふ、そらにうかぶつきはつかめぬもの……つかもうとのぞんではならぬものです」
「はぁ……あの、それで何で十六夜」
「いざよいはいざよう、ためらうといういみです。
 ひとをまどわせながら、なかなかそのすがたをみせようとはしない……
 ゆえに、そなたはいざよいにふさわしいのですよ」
 すみません誰か変換キー。出来れば誤変換はナシの方向で。
 ……ええと、とりあえずまとめられる所だけまとめてみようか。
 十六夜の月というのは十五夜、つまり満月よりも少しだけ出るのが遅い。
 だから「いさよふ」を転じて「いざよい」と言うんだそうだ。成程。
 まぁ理解した所で俺がそう呼ばれる理由についてはさっぱり分からん訳だが、
 とりあえず横に置いておくとして今はこの、視線だ。
 不味い事に十六夜の意味を聞いたせいで今までにもましてきつくなってしまった。
 というか、今の説明がどうして嫉妬の対象になるんだろうか。



 さーどうしようかな。流石にもう一度お茶が回ってくるなんて事も無いだろう。
 要はかすが殿が謙信様の隣になれば良い訳だから……
「よいしょ」
 猿楽を見ている謙信様の後ろを回って、右隣の右隣へ辿り着く。
 同じように猿楽にはあまり集中していないらしいその耳元に、そっと話しかける。
「直江殿。よろしければかすが殿と席を替わっていただけませんか」
 当然直江殿は不思議な顔をして俺を見る。
 まさかかすが殿が怖いんです、なんて正直には言えない。
「あまり熱心に猿楽を見ている訳でも無いようですので、えーと……
 この機会に、是非とも直江殿の無敵っぷりについて語りたいと思いまして」
 我ながら恐ろしいまでの出任せだったが、直江殿が喜んで席を替わってくれたので良しとしておこう。





 ちなみにこの時の俺はかすが殿の視線よりも、
 直江殿の最強談義を聞かされ続ける事の方がよっぽど苦痛だという事に、
 残念ながら気付いていなかったのだった。



相互さんへ差し上げたもの
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