「……可愛い犬ですね」
色白の指で撫でられて、黒い獣が心地良さそうに目を閉じる。
春の日の縁側、日の光が暖かく獣と少女達を照らしている。
「えへへへ、実は狼なんですけどねー」
狼なのか。余りにも犬らしいものだから全く分からなかった。
何というかこう、狼なら持っていそうな野生の獣らしさがまるで無い。
そもそも犬は狼を飼い馴らしたものだから犬らしくても不自然で無い筈なのだが、
これで本当に胸を張って狼と言えるんだろうか。
まぁ、尻尾が二本ある時点で最早普通の犬でも狼でも無い訳だが。
「何ていう名前なんですか?」
「幸村です。名前を教えてくれた時には音しか無くて、あたしが字を当てたんですけど」
「ああ……それでこの子はこんなに#奈々さんに懐いているんですね」
「えっそんな、さん言い過ぎですよぅ」
「うふふ」
真っ赤になって謙遜する飼い主と、それを見てくすくすと楽しそうに笑う少女。
話の内容が少々奇妙な事を除けば何て事は無い女の子同士の会話、
そして女の子同士の空間だ。
「……」
入って行き辛い。とても。
けれどいつまでもこうして盆を持ったまま背後に突っ立っている訳にもいかない。
「し、失礼しま〜す……」
我ながら間の抜けた声を出しながらそっと湯呑みの乗った盆を二人に差し出す。
「ばうっ!」
「うわ!」
な、何で俺にだけ吠え掛かってくるんだこの犬、いや狼!
うちの主君には尻尾丸めて縮こまる癖に!
「こら、幸村」
主人に窘められて途端にしゅんと大人しくなる辺りはやっぱり犬だ。
「ごめんなさい、お茶ありがとう」
「あ、いえ」
労われるとは思わなかった。
「普段はこんなに吠える子じゃないんですけど……」
「あ、いや気にしなくていいです」
「きっと、貴方の髪と眼の色がとても珍しくて綺麗だからですね」
「……」
これは褒められているのか。そうなのか。
どちらかというと原因は髪の色より種族とかその辺なんじゃないかと思うんだが。
もしくは単に主人の傍に異性が近付くのが嫌なだけか。
髪の色にしたって、単に黒くするのが面倒というか苦手なだけだし。
爪先から頭の天辺まで完全な人型なんてそもそも化けられたためしが無いし。
まぁ、比べる対象がうちの長だから仕方が無い。
この犬もあの人も、普段は人間の姿で主人の傍に侍っていると聞く。
彼の事だからさぞかし完璧に化けているだろう。
「とりあえず、邪魔するのもあれなんで俺下がってますね」
苦しい言い訳をしつつ、そそくさと場を辞して物陰に戻る。
実はまだそんなに長い間この姿を保ってられない。
ふー、人間の手で物持つとかかなり緊張した。
肉球が無いのがまさかあんなに心元無いとは。
くぁ、と犬が欠伸をするのが聞こえる。
「眠いですか?」
「あ、あう、いえっそんな事は……!」
犬じゃなかったのか。平和そうな欠伸だからてっきり。
「大丈夫ですよ。いつもこの時間はお昼寝してらっしゃるんですね」
「……はい」
確認じゃなく断定形で言った。
主君から教えられたあの少女の『能力』は、どうやら本物のようだ。
……という事はもしかして俺の正体もばれてたんだろうか。
「何時もは元就の尻尾借りて枕にしてるんですけど」
「元就……というと、先刻お使いを頼んでいらっしゃった方ですか」
「……はい」
道理で最近尻尾が痺れたとか凝って動かし難いとか言っていると思った。
式神とはそんな仕事までしなくてはならないのか。中々に大変だ。
そもそも長ともあろう方が何故こんな少女の式神なんてやっているのだろう。
考える程に不思議でならない。
「……どうぞ」
微かに衣擦れの音がする。
物陰からそっと覗くと、客人の少女の方が座っていた姿勢を正した所だった。
「え?えと、」
「……私目の膝で良ければ、枕にお貸し致しますが」
「はぅっ!? い、いいえそんな、悪いですし!」
「いいえ、私が言い出した事ですから」
「でも……元就が怒るかもしれないし」
怒るのか。何に対してだろう。
客人に膝を借りた事に対してか、それとも勝手に主の枕になった事にか。
個人的には何となく前者であって欲しい。
「大丈夫ですよ」
陰陽師の心配を他所に千里眼の少女が笑う。
「貴方があの式神に怒られている未来は……私には視えませんから」
「そ、そうなんですか?」
「……ええ」
何だ、今の間は。
主人以外になら怒るとでも言うんだろうか。
いや、その可能性は大いにある。よく不機嫌そうな表情をする人だから。
あの少女達に向かないなら、怒りの矛先はさしずめ俺か、あの犬か。
「それじゃあえっと……ちょっとだけ」
「はい」
頭を乗せて直ぐにうとうとし出した相手を、千里眼の少女は髪を梳いてやりながら見守っている。
不味い、またしてもこの場に居辛くなって来た。
よし、とりあえず好い加減にこの覗きのような体勢を止めよう。話はそれからだ。
一先ず向こうの部屋に戻って、毛布なり茶菓子なりを持って来るんだ。
今回はそんなにこっ酷い怒られ方じゃないといいなあ。
まだ腕が未熟なお陰で前回酷く馬鹿にされたのを思い出し、
俺は溜息を吐きながら立ち上がって踵を返し……数歩歩いた所で立ち止まった。
「お……長」
「長では無い」
「……では、元就様」
「何だ」
「……いえ」
目の前には、主人に使いを任されていた筈の我が王。
今日は何時にも増して機嫌がお悪いようだ。
機嫌が良くたって機嫌の良さそうな顔を見せる事は中々無い人だけれど。
「主はどうした」
「お休み中です」
「そうか」
「はい」
「……」
「……」
すいません、そんな馬鹿にしたような眼で見るのは止めて下さい。
俺だってこれでも頑張ったんです変化苦手なのに頑張って人間っぽく化けたし、
人間どころか同族の雌にも縁薄いのに頑張ってお茶持って行ったりしたんです。
「ふん」
元就様の目が一瞬俺の背後へ向く。
全体の様子を元就様の角度から掴むのは難しいが、断片でもこの人の判断を促すには十分だ。
「……あの女、主に妙な事をしたら焼き焦がしてくれる」
俺の耳に微かに届く二人分の寝息。おまけで聞こえる小さいのは多分犬。
今の物騒な台詞が聞こえていなかっただろう事がせめてもの救いだ。
元就様はもう一度あちらを一瞥すると、無言で踵を返した。
「長……」
一応この方にお仕えしている身として、後を追わずには居られない。
数歩後ろを歩きながら声を掛けると、
「その呼び名は止めよと言っておろう」
かつて俺達の山の長をしていたその人は、更に不機嫌そうな顔をして俺を睨んだ。
「人間に使われるような立場の者が長を務める訳にはゆかぬ。
主に仕えると決めた時に、その地位は捨てたのだ」
「しかし、」
この方が治めておられる間、山はそれまでに無く平和だった。
侵入者に対する備えは長を中心としたかなり厳重なもので、厳しい処罰を恐れて掟破りも随分と減った。
今でも俺はこの方以上の長を知らない。
出来ればまた戻って来ていただきたいのだが、
それにはやはり彼女との契約が切れるのを待たなければならないのだろうか。
「……時に、貴様」
唐突に主君の歩みが止まった。
「我が言いつけておいた事は全て終わったのだな」
「はい」
といってもあの陰陽師の客人に茶でも出してもてなしておけ程度だったのだが。
「ならば丁度良い。我も寝る、膝を貸せ」
「……はあ」
ある日当たりの良さそうな部屋へと姿を消したので慌てて追いかける。
恐らくこの人に宛がわれているのだろう、家具と呼べる物の殆ど無い質素な部屋。
「お疲れですか?」
「……些か」
そして俺は、我が主君も拗ねた時には丸まって寝るのだという事を知った。
相互さんに差し上げたもの