「……あたしがねえ」
紫煙をくゆらせながら女が呟く。
「あの頃もう少し、言葉を選べる餓鬼だったならねえ」
あんたこんなに捻くれてなかっただろうに。
呟きながら流し目で傍に座る男を見やる。
男は答えない。
例によっての仏頂面で、黙々と本の頁を捲っている。
私が出くわしたのは、丁度そう云う場面であったのだ。
「座る位はしたら如何だい関口君」
京極堂に促されて、私はやっと自分が座敷の入口で呆けていた事に気付いた。
「何だい秋彦そっけないねぇ。折角の客に座布団も勧めないのかい」
女が少しだけ母親の様な仕草で座布団を宛がってくれる。
歳の程は知れぬ。
三十は越しているようにも見えるし、ともすれば十七、八の生娘の様にも見える。
「良いんだよ、あれはただの知人だ」
「知人なら尚更もてなさなきゃいけないじゃないか。
あたしに茶を出して知人に出さないってのは筋が通らないんじゃないのかい」
「貴女は良いんです。客でも知人でもありませんから」
女は相変わらず屁理屈屋だねえ、と云って笑った。
「秋彦とは餓鬼の時分の馴染みなのさ。昔、下北にいた頃のね」
茶を出してもらって一段落した所で、女はそう自己紹介した。
細君は留守の様だが茶は美味い。彼女が淹れてくれたのだろうか。
「それは貧弱な餓鬼だったよ。いっつも木に登れないでべそかいててさ」
泣く京極堂というのが私には想像できない。
「貴女が青柿だの松の実だのを投げつけてくるからじゃないですか」
「泣いてるから当たるのさ。黙ってりゃあそうそう狙いも定まらないものを」
京極堂が益々眉間に皺を寄せる横で、女はけらけらと笑っている。
ちょっと珍しい光景である。
「それで、結局貴女は何をしに来たんです」
「おや、判ってなかったのかい」
懐から煙草を出して口に銜える。
たまさか同時に行われたその行為が非常によく似通っている事に私は気付いた。
地味とは云えぬ柄の着物の胸元が妙に艶かしい。
「あんたの顔見に来たのさ」
燐寸の火を煙草に移しながら女は云った。
その燐寸は京極堂が擦ったものである。
「餓鬼の頃のあたしは目を病んでてあんたの顔も見れなかったからね。
治った頃にはもうあんたは下北にはいなくて、聞けば陸軍に徴兵されたって云う。
こりゃてっきり引鉄の一つも引けずにおっ死んでるなと思ってたんだけど」
「僕は研究所勤務だったんです」
「そりゃ良かったねェ。で、この間ふと思い出したもんで会いに来たんだよ」
思い立ったが吉日って云うだろう。
ねえ、と同意を求められたが、私には返答が出来かねた。
私が何も云わないので、女は再び京極堂の観賞に戻ったようだ。
「いい男じゃないか」
聞いていた私は湯飲みを取り落としそうになったが、京極堂は眉一つ動かさない。
「生憎ですが、僕はこれでも古書業界では愛妻家で通っているのでね。
人を不貞の道に誘う様な言動は慎んでいただきたい」
「あたしはいい男だと云っただけだよ?
不貞を働きたくないのなら、これしきの言葉流してしまえば良い」
遊んでいる。そう直感した。
京極堂が下北にいたのは七歳までだから、それから会っていなかったとしたならば二十数年振りになろうか。
つまりおよそ二十年振りに、この女は京極堂を揶揄って遊んでいるのである。
京極堂が自分に悪感情を持っていないのを知っていて。
その仏頂面の向こうで内心狼狽しているのを透かし見て、愉しんでいる。
何故だか女が酷く羨ましかった。
こういう女性キャラ大好きなんです